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陽気ぐらしのきたはりま分教会

こころのままにspirit

こころのままに

親心│|本物の信仰││私が教会長になるまでの心の道のり││大恩
心をらくに││お母さんの役割││心のつながる場所
旬がくれば

2023年
親心
2021年
本物の信仰
2020年
感じる│|ゆだねる
2019年
すべては自分の中に│|天理に沿う
2018年
ぜんぶありがたい│ │たのしむ│ │こころのままに伝わること
2017年
喜びを引き出す│ │ちょうどいい│ │信仰とは
大恩にきづく│ │種まき│ │ほしい
母からの宝物│ │いんねんの持ち越し│ │心次第
おまかせ│ │自由自在
2016年
十年││道は続く││よきとうりょう
節から芽が││教会││導き
こころのみち││おぢばがえり││天の理
元の理││今を生きる││小さな喜び大きな未来││

2015年
風邪は万病の元││身の内の神様││めぐりあわせ
ひのきしん││命あっての物種││成ってくる
いろいろあっても││めぐってくる││できることを
少しのちがいが││どのような時でも││こころ
2014年
8月││9月││10月
11月││よろこび登山


大恩










本物の信仰を求める

 本来教えの原点は元の理であり元のいんねんといいますのは、人間のようきぐらしを見てともに楽しみたいという親神様の思いがあります。こうしなければならない、ああしなければならいという縛りのある人間世界の中で原点(典)に触れ「ようきぐらし」というものへの自分なりの感覚(理解)が必要なのです。ようきぐらしというのはただ楽しいというのではなく、「たんのうのこころ」にありますように簡単に言い表すと大恩に気づきどんな中でもよろこべる状態のことであります。
私自身まだまだ信仰を掘り下げている途中でありますが、今感じている自分が自分のすべてであると思ってしまうと苦しみが多いのです。
多くの場合、私たちは「どう生きるべきか」に頭を悩ませています。しかし、時折、自分は、何ものかに「生かされている」とも感じることがあるのではないでしょうか。私たちのこの身体や周りの全ては神様からの「かりもの」で「心一つが我がのものたった一つの心より日にちに出る」と教えていただきます。二つで一つなのです。決して一つだけではありません。何よりも自分の内面に気づき大恩を自覚し行動することが重要なのです。大恩と言いますのは生かされているというありのままの感覚そのものであります。この感覚に感謝しそれに従い生活を送り 神様の望むようきぐらしを目指しましょう。
何も大きなことをするのではなく今ここで今この瞬間から実践できることなのです。


時報を通したお道との心のつながり

〜私が教会長になるまでの「心の道のり」の中で時報を通した色々な出会い〜
(2018年6月30日兵庫教区天理時報手配り推進大会にて)

 教会長になって4年。それまでというと滋賀県で臨床検査技師として普通に働いておりました。なぜ滋賀県かといいますと滋賀県で生まれたわけでもなく、職場が滋賀だったというだけで、私にとって滋賀は全然知らない土地でありました。しかし滋賀での出会いが大きな運命の分かれ道でありました。奈良で生まれ神戸で被災し、また奈良に引き寄せられ学生時代を過ごしました。私や妻は一般の信仰家庭で育ち、特に私はおぢばの学校を卒業はしたものの、そこから天理教が嫌いという事ではなかったけれど、お道から離れている姿がそこにありました。そうした中詰所で伏せこんでいた両親は、その間もずっと天理時報を送ってくれていたのです。それを楽しみに読んでいたということはないけど、天理時報を見ておぢばの様子や月次祭であったり学校の事など、天理にいなくても「おぢば」をを感じることができたことを覚えています。また心の迷いがあるとき「をやのことば」がふっと目に入ったり、心が軽くなることがありました。といっても当時は自教会に参拝したりであったり熱心にひのきしんにいったりということはありませんでした。
そしてしばらくして、ある日家のインターホンがなりました。「近くの布教所のものですが、天理時報を手配りにさせてもらってもよいですか」と来られたのであります。正直に言うとそこにはお道離れとゆうような人が感じる特有の嫌悪感が少しありました。しかしながら段々に打ち解けていき、その出会いが不思議なものでした。布教所長さんが同じ臨床検査技師の方であることや、配っていた息子さんと年齢が近い等の共通点があったのであります。
 そうして時報が手配りに切り替わり、その布教所の月次祭に参拝するといった交流が生まれました。私は元々遠方の大教会直属の信者家庭であった為、教会というものをあまり身近に感じたことはそれまでありませんでした。結婚して妻の両親(自教会役員)の婿養子となって所属変更し現在の教会の所属になっています。滋賀での布教所は私が天理教の教会に対して持っていたイメージとは全然違い、医療職種が同じという点もあるかもしれませんが、価値観がどこか現代的な部分があり、働く用木という姿を感じたのであります。誰のために信仰しているとかではなく、楽しいからしているというような感じです。
そうしているうちに、月次祭に参拝するなかで、自教会というものを意識するようになってきたのであります。 兵庫県の自教会の会長さんには子供がなかった訳ですが、私達が当時幼い子供を見せに行くととても喜んで下さり、年に数えるほど自教会にも足を運ぶようになったのであります。
 そんな中、私達夫婦に思いがけず自教会の会長様や上級の会長様から後継の話があったとき、今までの時報を通したお道やいろいろな人との心のつながりというのは、一見ばらばらのようでも神様の思惑(親心)の通り一つにつながっている(という壮大さを)感じると不思議と素直に受ける事ができたのであります。
もとはといえば、少し天理教に反れる面のあった私に、ちょうど一年前出直した母親がめげずに天理時報を送り続けてくれていたという親心に、ありがたかったなとあらためて思いをはせることができたというのは、このような機会をこの旬に与えていただけたお陰であります。教会長にならせていただいて、用木さんが授かったとき1年間無料購読というものがあり、実際に購読される姿をみて、母が送ってくれた気持ちに少し近づけたように感じます。
ただただ郵送されてきた天理時報を読むだけでは今の自分はなかったように思います。手配りに切り替わったからこそ生じたお道との心のつながりや、近所にいても知り得なかった不思議な出会いが運命まで変えて、いろいろな「をや」に親孝行できるまでの自分になれたと考えます。それというのは、天理教では親というと色々な「をや」があると思いますが、私の場合でしたら、当教会の前会長、上級の会長様、妻の両親、そして私の両親、特に母親は私が教会長をお受けするに当たり、世間において、どんな良い仕事、地位になってくれるよりも、このお道を、さらに教会長の道を通ってくれる事が何よりの親孝行であると、養徳社の陽気において掲載された記事(No.815津山照代)でも語ってくれておりました。私達に思いがけず起こってきた節目に、何も知らぬまま成って来るよう飛び込んだこの教会のおかげで、私達の運命まで大きく変わり、母には最期に一番と言ってくれる親孝行ができるまでの自分になれた事、結局これが私の最大のたすかりであるわけであります。その旬その旬というものに、人間では理解できない複雑な事柄が起こってくる、目の前の現実(みえているもの)だけを見るのではなく、どんな形であれ、それは全て神様の先回りによって順々に一つ繋がっている。そう感じる。それが正直な気持ちです。そういう想いで、今後も教会を盛り上げていきたいと考えています。 


心をらくに

 『心をらくに』する一つに、マスト(こうしなければならない)思考から一旦離れることが必要と思います。世間にはマスト(こうでなければならない)が溢れています。教育はこうでければならない、あれもこれも『ねばならない』、悩ませる一つの例は子育ての問題でしょう。いろいろなところで、子供の教育にはこれがいい、こうしたらよい子になる、これをしないから良くならない・・・・人とは、こうしなければならないと思うこと、心の中に生まれた『マスト』はその人にとって絶対正しいものに変化し、相手の状況をも顧みず、よかれと思ってまわりにも求めてしまします。これが広がっていく・・・人と人との間で生きている人間は、そういう人間関係の中に生きているわけで、全部まともに受けていたら疲れてしまいます。少し冷静になって、良いところだけ吸収し、あとは流す、というリテラシーが必要に思います。この世界に生まれてきてマストなものは、「生きていく」ということだけです。また、相手の気持ちを思い、接することが重要に思います。何にせよ個人には向く向かないはどうしてもあります。無理には理が無いといいます。そして人生は長い。先を楽しみに仲良く過ごしたいです。


お母さんの役割

 ある晩のこと、ある方が、前会長の夢を観たとのことです。
前会長が会長につたえてほしいということで話してくださいました。
『 親子が仲が良いのが神さんがいちばんよろこんでくれるのや』
子供が『お母さん』『お母さん』と寄ってくる間は受け止めてようよう過保護なくらいがよいと、そう言ってくる時期もきまっているのだから、ようよう受け止めてやらなあかん。

 世間の風潮では自主性・自立をもたせることを推奨している場合が多くありますが、それは親子での十分なアタッチメントが形成して得られる自己肯定感が大前提であって土台がないまま自立するのは無理です。親が残して上げれるのはこの自己肯定感という土台しかないわけで、そこからの徳は自分で積むものと思います。しかしこの土台が生涯とても重要なものです。


教会というのは・・・心がつながる場所で

教会の子供
 教会では子供が学校から帰ってから真っ先にすることは、神様に御礼として神殿で参拝をする事が日常のようです、子供が義務的に、帰ってきたら参拝するという事を、形だけしているのであればどうにもならないように思います、帰って、はい神殿行ってはい礼拝して家にはいって・・・というよりも心が御礼を言う方が重要であって、まずはお母さん『ただいま』ということが基本でそこから一緒に参拝するなりするべきと思います。教会だからこうしなさいということは『きたはりま』では極力ないようにと思います。正直、私は天理教の形だけを重んじたほんのちょっとの一面が小さいころあまり良い印象ではありませんでした。お道の中のほんの少しの形だけの一面・・・私は教会に生まれ育ったわけではありません。教会として続いていくには、仕方ないから受け継ぐのではなく、『心』から子供に信仰が繋がっていくことが非常に重要と考えます。だから子供の心がそうするように向いてくれるたらうれしいですが、教会だからちゃんとするという『形』よりも、心がそう向くならすればよいし、向かないならそれでよいと思います。
 前会長もそういう考え方の人物でした。『きげんようしとったらようようらくや』、私もこの『きたはりま』なら居心地がよかったのです。
 だから北播磨に繋がっておられる皆様は、そのような感じで心がつながっている方ばかりです。私もそういう教会だったから来れたように思います。

 『夫婦親子が仲良く』が台となり、きげんよくしている、その姿に人が集まり匂いがかかるのだと言います。
 この『きたはりま』がずっと心がつながる場所にあってほしいです。


旬がくれば

リテラシー 
 リテラシーとは情報から必要なものを引出し活用する、情報を適切に読み解く力のことです。なににつけてもリテラシーは重要です。医療リテラシーは病院にかかるとき、なんでもお医者さんのいいなりに治療をうけるのではなく、自分にとって最善の治療法や薬を選択するには医療の情報を理解して読み解く力が必要です。情報リテラシーもインターネット等であふれた情報の中には本当かどうかわからないものも多くありますが、まず吟味して正しい情報を取捨する必要があります。教育にも、ゲームの是非、本の効果、子供への接し方も時代によって違う、ゲームだって否定派と肯定派がいるわけです。個人は千差万別であり、どれかに偏るのではなく、自分に合った情報を活用する必要があります。
信仰にも・・・信仰は特に自分の心が求めて引き寄せられる部分も多くありますが、自分の心が向くかが真に重要であり、向かないままではそれだけ、心の負担になります。そうすると、どうしてもどこかに無理が働くために、心がゆがんだり、傷ついてしまいがちであります。いかなる場合も、最後の最後は自分で選べばよいと思います。信仰においてリテラシーは自分の心と照らし合わせて、良い部分を取り出し自分の中で活用できるようにする必要があると思います。人にはそれぞれの時間が流れていて、旬の時期もちがう。野菜もそうですが、種をまいて芽がでて花が咲き実がなるのもその旬がこないと実りません。旬以外のときに実はならないように、形よりも、旬がきたらおのずと神様がひきよせてくださり、あとは自分の心がきめる、人間はみんな『ようき』に幸せになる必要があります。

 むりにこいとはいわんでな
  いずれだんだんつきくるで (12下り目6)

私がそうであったように、自然に向く旬というものがあるように思います。


2014年8月

積み重ねる
 ただ今は、八月の月次祭をお忙しい中、それぞれの立場の中で、共々に勇んでお勤め頂きまして誠にありがとうございます。

 先月の奉告祭から早いもので1か月たちます。
奉告祭では皆様には事前準備からお手伝い頂き、お蔭でとても暖かいアットホームな北播磨らしい良い奉告祭となりましたことを改めて御礼申し上げます。
また、義理ではなく、北播磨分教会を支えてくださる真実の方々ばかりがご出席頂きました事は本当にうれしい限りです。
全体写真も皆様和やかな表情の良い写真になりました。

 皆さんここまでそれぞれ、色々な想いでつながってこられたと思います。親神様から皆様との不思議なご縁を大切に、吉山先生の想いを継ぎ北播磨分教会を形式ばかりではなく、吉山先生がおっしゃっておられた、ようようらくやの通り、心がらくに、皆さんの心が寄るよう、つながるよう、務めていきたいと思います。

 また、こどもおぢばがえりは、先月7月28日29日に、大黒北播磨隊、でお世話どり頂き、62名の子供たちと、大人も北播磨から8人のひのきしん、引率にてお手伝い頂きましたおかげにより無事帰らせていただきました。天理まで遠方の中ひのきしん・引率に誠にありがとうございました。
私自身はじめてのことでありましたが、来年はさらに充実したものにしていきたいと思います。

 こうして、毎月当たり前にのように月次祭に足を運んでくださること、今回のようにひのきしんにしても快く受けて行っていただいたこと、これ自体がすごいことだと思いました。教会となると、それが(来て)当たり前のようになりがちに思えますが、私が教会で育ったわけでもないこともあり、色々と忙しい中、毎月万事合わせて、積み重ねていただくのは当たり前ではなく、大変なことと思います。ひのきしんは、漢字では、日を寄進するという意味で、時間を御供えするということです、月次祭にしてもひのきしんにしても、積み重ねておられる、そこに込められている心に神様が働いてくださっていると思いました。
先月から色々行事があって、御礼を込めて挨拶にかえさせていただきます。ありがとうございました。


2014年9月

 ただ今は、9月の月次祭をお忙しい中、それぞれの立場の中で、共々に勇んでお勤め頂きまして誠にありがとうございます。
女の人は台
 8月29日ご本部で、教祖130年祭にむけての委員部長講習会というものがあり、参加させていただきました。委員部長は各教会の奥様のことで、その奥さんの講習会ですが、子供も小さいですので、家族4人で天理に、私も子守でついていきましたので、 少しその内容も含めて紹介と思うことを述べます。
 よく言われます、女の人は十全の守護で『をもたりのみこと』さまと『くにさづちのみこと』さまで、ぬくみとつなぎの徳分、役割がありますので、温かい心遣いが神様の理にかなっているとお聞かせいただきます。つつとめとさづけは大切ですが、いくら鳴り物が上手だとかおてふりがどうとか形だけの奥さんでは教会に人はよってこないと、神様の話、教理ばかりでも、とっつきにくく逆に人はよってこないのです。温かい日々の心遣いが大切であってこれは教会だけの話ではありません。どこでも一緒と思われます。北播磨の御婦人方のみなさまは、いつも元気で温かい方ばかりだとおもいます。女の方は台、なんといっても土台ですので明るくいつも笑顔でいてくだされば家も内々もおさまって教会も賑わって、神様も喜ばれますので、女の人の力はとてもすごく、欠かせない存在であると思います。

いい匂いになる
 8月31日は社大教会の青年会の集まりがあり、本部の委員さんが来られてのお話やにおいがけ等がありました。においがけとは、この天理教の教えをにおいに例えて、みなさんに知ってもらう、ひろめることを言います。通常のにおいと同じように、臭いにおいではなくいい匂いをかけることが重要なわけですが、いい匂いでも匂いがきつすぎては鼻につく、言い方しだいだと思います。それにはその人の機嫌というか心の状態が表情にも話し方にも出るわけです。自分のまわりの環境は刻々と変化しています。そんな中今というものをしっかり見つめて、心を澄まして、この瞬間を大切にしていく、 心をよろこびで満たすことが重要に思いました。
 においをかける方法も布教活動で戸別訪問等もありますが、自分の匂いをいい匂いにして、その匂いを嗅いで人がやってくるというのもひとつ、一番いいにおいがけになるということでした。ゆたつにもありますように、世間からみて成程の人になれば、自然に匂いがかかっているのです。難しいことをしなくてもちょっとしたことでも広まることに、噂もにおいと一緒であります、日々の過ごし方は非常に大切なんだなぁと思いました。簡単ではございますが、今月の挨拶にかえさせていただきます。ありがとうございました。
 9月21日は午後6時より秋の御霊祭でございます。お忙しいとは存じますが、ご参拝いただきますようお願い申し上げます。


2014年10月

秋の大祭 だめ(最後)の教え
 ただ今は、10月の秋の大祭をお忙しい中、また、先日の台風で足元の悪い中、それぞれの立場の中、共々に勇んでお勤め頂きまして誠にありがとうございます。

 速いもので10月に入り、秋が深まってまいりました。この月は大祭であります。10月26日はご存知の通り、おやさまに親神様がお入り込まれ、天理教が始まった月であります。この道は、陽気ぐらしをするのを見て共に楽しみたいとの思召しから この世人間をお創め下さり、約束の年限におやさまを通して伝えられる、神直々の教えであります。そして、この教えは、「だめの教え」と言われます。「だめ」とはこれはだめ、あれはだめという意味ではなくて、だめとはだめ押しの略で、もともとは囲碁の用語で、勝負を確定する局面を指すところから、総仕上げ、最終的、究極的の意味で用いられています。『天理教教典』には「十のものなら九つまで教え、なお、明かされなかった最後の一点、元の親を知らして」と、元の神がつけられた陽気ぐらしへの道であることになります。陽気ぐらしへの最終的な教えということになります。海外では宗教が元で争いが起こっていますが、他宗教の教えも、親神様がその時、所に応じて現されたお導きの教えであり、敬意を払うよう教えられています。

1年前の事
 思えばちょうど一年前のこの日、北播磨の秋の大祭に参拝した時の事が思い出されます。吉山前会長が体調すぐれない中、部屋で大黒の会長様が『次の後継者は・・』と聞かれると、私たち夫婦に、『何も心配いらん、夫婦仲よう、きげんようここをしてくれたさえええんやで、朝夕のおつとめさえしてくれたらええ・・・』と仰いました。衝撃的な出来事でありました。そこから、色々思案し、天秤にかけながら、一度は断らさせて頂きましたが、いろいろな想いを受け、心を定めました。成ってくる理が天の理というように、色々と込み入ったことありましたが、順調に、ここにいる皆様の心強い支えがあって、任命お運び、奉告祭を無事勤めることができ今日の日があります。

ようきぐらしはようようらくに
 立教に込められた、この教えは、ようきに日々をくらす、ようきぐらし、すなわち心を澄ます生き方の『道』であります。そして、そのために重要とされるのは、夫婦であります。夫婦は人間創造の原点であり、夫婦の役割が、人間の生きる上でいかに根本的なことであるかお教え下されています。
また、どのような立場の方でも心の使い方ひとつで結構になるのがこのお道であります。
前会長様はむずかしいことはいわんと、このみちは気楽に陽気に通ればよいと常々言われていました。
私は山登りが好きで、こちらに来て山と自然がいっぱいで、山に登ると心が澄む感じがします。山道は上り坂もあれば平坦な道もあり、がけみちや下り坂、それの繰り返しですが、しんどいけれども楽しい、私でも一歩一歩あるけば頂上に登れる達成感があります。
今日はさくゑ前奥様もご参拝くださっています、前会長御夫婦がこうして色々な道を二人で何もない所から歩んでくださり今の結構な日があると思わせていただきます。このお道も、一歩一歩、神様に喜んでいただけるように、前会長の『みちしるべで』ある、むずかしく考えず、日々を気楽に、それぞれの道を陽気に登ったり下ったり楽しめばよいのではと思わせていただきます。


2014年11月

初代の想い
 先日11月2日・3日と吉山壽一初代会長の納骨ならびに1年祭を無事に終えることができました。
月日が経つのは早いもので、吉山先生は約1年前、平成25年11月11日午前6時ちょうど、当教会の朝づとめの時間にお出直しになられました。生涯『おたすけ』に『誠真実』の道をたどられ、また私たち一人ひとりに『おたすけ』の中から銘々に神様をつかむ心をお残しくだされたことは、それぞれ皆様が一番ご承知の通りの事と思います。
先月に修理巡教と言って、本部から先生がこられて色々とお話しを下さいましたが、そこで初代の教会を始めた想いについて触れられました。いろいろ考えてみますと、吉山先生が教会をおはじめになられたのは、どんな理由、科学や医学のように根拠があったとかではなかったように考えます。よく天理教で言われるような、『成ってくるのが天の理』であったのであります。それは、皆さんが、真に助かるよう、心が幸せになるよう、また心が澄むようにとの一心の想いであったと感じるわけです。『おいちゃん』と慕われ、『おかきさげ』の『どうせこうせこれは言わん』の通り、身をもって教祖の『ひながた』をお通り下さいました事に、皆様がこうして心一つに積み重ねてこられました。そして、今もなお、お見守りくださっている大きな温もりを感じさせていただきます。
今こうして、神様のご縁で引き寄せて頂き、ここにいること自体が私共を含め、助かっている姿であると思います。これからも心を寄せて、お互い機嫌よく日々を通らせて頂きたいと思います。


よろこび登山(2014年12月)

私が山に登る本当の理由
 山登りは好きです、山に登ると心が澄む感じがします。山道は上り坂もあれば平坦な道もあり、がけみちや下り坂、それの繰り返しですが、しんどいけれども楽しい、私でも一歩一歩あるけば頂上に登れる、また頂上では素晴らしい眺望と『山に来てよかった』と思うと共に、なんとも言えない達成感があります。もう一つ理由があります。
下の子が自閉症と診断されました。自閉症とは・・・現在未解明な部分も多い、生まれつきの脳の特性によって起こる、先天性の脳機能障害でありますので、心を閉ざすといった病気ではありませんが、先天的に脳内の『オキシトシン』というホルモンの濃度が低下し、脳の内側前頭前野の活動低下が関与していることがわかっています。ですので誤解されがちですが、ゲームやテレビを見せているから、声掛けが少ない等の理由で生じるものではありません。(自閉症の子はゲームが好きですが、ゲームをするから自閉症になるという根拠はまったく存在しません)
山登りではその達成感である『よろこび』の感情があふれている時にでる『喜びホルモン』の『オキシトシン』『セロトニン』がたくさん分泌されることがわかっています。家族や友人などの集団で登る登山では、時に助け合いが生じます。疲れて歩行が遅くなった人の荷物を持つ。子供が歩けなくなったら抱っこして進む、足を痛めた人にはペースを合わせる、また介抱する等々。みんな揃って頂上にたどり着けるよう力を合わせて『山登り』を達成する時に喜びホルモンである『オキシトシン』が分泌されます。私たちは、家族で助け合いながら登ることによろこびを見出し山に登るようにしています。
山に頻繁に登ることに不思議がる方もおられるかもしれませんが、この自閉症という障害に登山が良いという理由はここにあります。喜びホルモン『オキシトシン』が補充され、脳が活性化されるという大きな可能性に満ちています。
実際に山に登り始めてから様子が段々と変わってきたことは事実でありました。山ではまだ3歳ですので、登りが多い中抱っこする時間も多くありますが、お母さん以外に抱っこされることを嫌がるところ、山では私が抱っこして登り、日常生活でもよく引っ付いてくるなど反応があります。よろこびで登っている、心が澄むことが家族全員にとても良い変化があったように思います。

この『オキシトシン』というホルモンは、出産の時に子宮を収縮させる、乳腺を刺激して母乳を出す働きがあり、女性のホルモンという印象がありますが、男女関係なく存在し、その他の機能として人への親近感、信頼感が増す、ストレスが消えて幸福感を得られる、血圧の上昇を抑える、心臓の機能をよくする、長寿になる。という良いことずくめの効果が示唆されています。 オキシトシンが分泌されると、脳内では『脳内物質』として働いて心を変え、さらに血液中のホルモンとなって体にも効くのであります。
まさに、神様の思召しに沿った『おたすけ』『ようきぐらし』がかなっている時に出るホルモンでありますので『ようきぐらしのホルモン』といっても良いと思います。

おふでさきに

しやハせをよきよふにとてじうぶんに
みについてくるこれをたのしめ (2.42)

とあります。

山登りは一つの例でしたが、日常生活でも喜びに変えること、人のことを大切に想う事で『ようきぐらしのホルモン』がでるわけです。それにはまず、自分を大切に思えることが出発点であると思います。これは「かわい」の埃とは違います。自分を大切にしないのに人なんか助けられません。
また、

にちにちにひとり心がいさむなり
 よふきづくめの心なるよう (11.55)

まずはかしものである自分を大切に、身近な人、夫婦親子に広がり、だんだんと喜びに満ちた道を広げて歩みたいです。下の子のお蔭でいろいろなことに気づかせていただきました。色々な経験が宝であると思います。本当に私たち夫婦にこの二人が産まれてきてくれて親神様に感謝しています。
 


風邪は万病の元

やむほどつらいことはない
 今年のお正月はこの辺りも雪が多く降り、寒波で寒いお正月となりました。気温がぐっと下がり、年末年始の忙しさも相まって、かぜをはじめ体調を崩された方もいらっしゃることかと思います。
かぜは万病のもとと言われますように、たかが風邪といっても、一度引くと長引くこともある厄介な病気であります。しかも風邪には治療法がなく、風邪薬も症状をおさえるだけですので、自己治癒力、自分で病気を治す体の力で乗り切るしかありません。
日常生活にも病気にも前向き、陽気な心であれば、病気にもなりにくいし、なっても治りが早いことは、科学的にも証明されており、みなさんもよく聞かれたことがあると思いますし、普通に考えれば心が沈むよりも、物事を前向きに捉えるほうが絶対良いことは御承知の通りと思います。
ですが、一旦身体が弱ると、元気だった心も弱り、心が細くなっていきます。そして、ごはんがおいしくなくなり、食べられなくなってくると、心は沈む一方です。私も先々月本部で登殿参拝のおり、感染性胃腸炎いわゆる腸かぜにみまわれました、発熱と嘔吐で脱水のつらい中、ピークを過ぎるとだんだんに、それまでがうそのように楽になる瞬間というのを感じ、本当にうれしいありがたいと思う瞬間だなと感じました。

『みかぐらうた』三下り目八つ
 やむほどつらいことハない
  わしもこれからひのきしん 

元気な時は、日々健やかに普通に過ごせることが、ありがたいこととは気づかないものです。病んでから分かるのもいいですが、病む前に親神様の日々ご守護の有り難さを感じるというのは素敵なことだと思います。
今年は教祖百三十年祭三年千日仕上げの年であります。何よりも御存命の教祖にお喜びいただけるよう、「おつとめ」を芯にお互い温かいゆたかな心の一年でありますようにお祈り申し上げます。


神様のかしもの

身の内の神様
 親神様は陽気ぐらしをするのを見て共に楽しみたいとの思召しから、この世人間をお創め下さり、人間一人ひとりに十全の守護を、つまりは十分な機能を備えた、神の宿る体を魂の器としてお与えくださっております。
 ですので、本当はこの身近な自分の身の内にこそ神がおられて、普段何気なく身体を使うことが出来る。みんな自分の中に神が宿っている、ということは、この体は神の一部なのであります。神様が身の内にいてくださるということに気づければどれほど心強いことでしょう。
 「にんけんハみな/\神のかしものや なんとをもふてつこているやら」(3.41)人間の身体は、神様からの『かしもの』心一つが自分の物とお聞かせいただきます。
 人間の身体は約60兆もの細胞からできており1個1個の細胞は遺伝子を持ちそれぞれにまた生きている。十全の守護にあるように、身体の中でもホルモンをはじめとして『対』になる働きでバランスを保っていることがたくさんあります。【『いざなぎのみこと』男雛型・種の理『いざなみのみこと』女雛型・苗代の理】この夫婦の理のように、男性ホルモンであるテストステロンと女性ホルモンであるエストロゲンは男女関係無しにひとりの身体の中に、夫婦のように存在し補いながらバランスを保っています。血液の糖分、血糖を調整する働きでも、インスリンは血糖値を下げる働きがありますが、血糖値をあげるホルモンはいくつかあって、グルカゴン、アドレナリン、コルチゾール、成長ホルモンといったホルモンにより、血糖値のバランスが維持されています。人間の進化の上では飢餓に耐えれるようにと、血糖値を下げるホルモンはインスリンただ一つしか用意されていないこと、また日本人は特に倹約遺伝子を持つ割合が多く、飽食の現代では糖尿病にかかりやすい要因の一つでありますが、通常は不思議と非常に狭い範囲の中で血糖は正常値に保たれております。
 誰しも身の内に神が宿っている、神様が自分の中にいることがわかったら、自分の事を大切にする大切に思う、自分を好きになる。これがこの身体をかしてくださっている神様への一番の御恩報じ(よろこんでいだける)幸せになることであります。こんな自分なんてと思うことは私もありますし、みなさんも少なからずあるかもしれません、でも今の自分のあるがままを受け入れ、わがみかわいいのではなく自分の全てを大切にすることが、かりものを大切にしていることであり、御恩報じ、陽気ぐらしへの道であると思います。


めぐりあわせ

天理のめぐりあわせ
 先月から当教会から1名修養科に行っておられます。3ヵ月間天理で生活し、おぢばで勉強にひのきしんに、神さまのふところで伏せこむ生活になります。修養科の修養とは一般的に「知識を高め、品性を磨き、自己の人格形成につとめること」天理の修養科は、やはり「こころの修養」が目的になるかと思います。その一つを担うのがやはり、人との出会いであるかと思います。
  どのよふなところの人がでてきても
   みないんねんのものであるから(4.54)
 天理にはいろいろな事情や身上(病気)をもった人が集まってきます。ちょうど一年前の同じ時期は、私が天理の講習で同じような生活をしておりました。いろいろな人がいるなか、不思議と同じような共通点や事情が似た人がいたり、いろいろな人との出会い、話をするなかから普通では話さないような身の内を話す機会があったりと、何も飾る事無く、ありのままの自分でいることができ、自分を再度確認できる、本当に不思議なところであります。それは天理というところが、どんな人にも『平等』なところであるからと思われます。世間であれば、こんなこといったらこう思われるのではとか、恥ずかしいとか、利害関係があったりとか、なかなかみんな思いを隠しながら過ごしていることがあると思いますが、天理ではみんな一列ならぶ、高い低いもありません。自分が認め受け入れられるという肯定感があるように思われます。以前は病院・医療関係の人が多かった人間関係ですが、世間の生活とは違う天理の講習では、また全然違った世界が広がっていきました。行くべき時しか行けないのがおぢばであります、この方はでそば職人として一生懸命働いておられますが、今回突然行くことになりました。3ヵ月間は長いですが、職場社長さんの理解の元、一番良いかたちでスタートされたと思います。ただ修養科にいくのではなく、この本人の素直な思いと、周り方々のたくさんの思いは、
 にちにちにこころつくしたものだねを
     かみがたしかにうけとりている(号外)
ことであります。
 
今月もかりものの自分を好きに、大切に皆様が元気で『ようき』でありますようお祈りいたします。


ひのきしん

魂は平等
  せかいぢういちれつわみなきよたいや 
  たにんとゆうわさらにないぞや(13.43)
  高山にくらしているもたにそこに   
  くらしているもをなしたまひい(13.45)
  それよりもたんたんつかうどふぐわな 
  みな月日よりかしものなるぞ(13.46)
 世界中の人間は親神を親とする兄弟姉妹であり他人というは一人もいない、どんな境遇でもみんな同じ魂を持って生まれ、そして等しく神の体をお借りしている存在であり、本来何の隔てもないはずの人間の間に高低があると勝手に思うから争いが起こると仰せになっています。
  せかいぢうこのしんぢつをしりたなら
  ごふきごふよくだすものわない(6.121)
 身体は神様のかりものである、身体は神の一部、心一つが自分の物、そのほかすべては借り物、お金をはじめ身辺の一切がお預かりしているもの、委ねられているものだという真実がわかったならば、決して強欲に走る者はいないとおっしゃっています。だから月日には、いちれつきょうだい、かしものかりもの、この真実を世界中へどうぞしっかり承知させたいというのが神様の思いであります。それらを感じながらひのきしんに励むことはとても大切なことと、思わせていただきます。 『ひのきしん』は『神仏に金銭や物品を供えること』という意味の『寄進』に『日の』がついたものです。
  なにかめずらしつちもちや
  これがきしんとなるならバ(11下り目7)
 土持という、土を運ぶことが寄進になる、だれにでも、心さえあれば神様に捧げるあらゆる行為、たとえば、人に親切にすること、暖かい言葉をかけることなども親神様は寄進として受け取ると仰せ下さっています。
 私は、恥ずかしながら、以前はひのきしんという言葉について、「タダ働き」というイメージを持っておりました。しかし決定的に、世間での仕事とひのきしんの違うところは、仕事はお金がもらえますが、ひのきしんは見えない力ご守護を頂くことができることと思います。私は現在、教会の御用と病院での仕事もしておりますが、仕事はお金が発生する分、何かと不満というか思うことであったり我慢することも必要であります。ひのきしんは、いやいやしていたら別ですが、よろこびを伴う、すっきりする、よろこびホルモンであるオキシトシンがでている、登山で山頂についたときのような前頭葉が活性する感じがします。適当な言葉がみつかりませんが、自分が認められている、肯定されるようにも思います。 これだけしたからどうなるというような目に見えたものはありませんが、それらのよろこびは前頭葉が活性し、いずむ気持ちも晴れる。この前頭葉はうつはじめ様々な病気に関係し、人間として人間らしく生きるにはとても重要な脳の部分であります。そしてこれは、自分で感じてみてはじめてわかることであると思います。だから決して「タダ」なんかではなく、心にも体にも良い、そして良き「にをい」が自分の身についてくる、お金では買えない、それ以上のものが得られるように感じます。月次祭でのおつとめも大きな寄進です。
 私達はどうしてもみかえりを求めがちですが、職場や家庭の中でも、ひのきしんは、心さえあればどこでも実践できる、 何も掃除することだけではなく人に親切にする、暖かい言葉を心がける等、日常それぞれに合った『かたち』でちょっとした心がけが寄進になります。理屈ではなく欲を忘れて実践してみて、その意義がわかるものであり、私たちの心と体の栄養になると感じさせて頂きます。


命あっての物種

自分という存在の大切さを知る
 先月ある方の娘さんが自動車免許をとり、自動車を購入されたこともあり、自動車の使い始めの為に、本人はこれませんでしたが、お父さんが参拝にこられましたので、祭文を挙げ、おねがいづとめをさせて頂きました。
次の日、朝づとめにこられて「車がもうだめになったんです」とおっしゃられました。「えっ・・・」ということになったのですが、朝づとめが終わって事情をお話し頂くと、昨日、使い初めの参拝後、家まで乗って帰られた後、娘さんが買い物に行くといい一人で車に乗って出かけられました。少し遠くの方までいっておられたところ、ふとした瞬間から溝に脱輪しそのまま電柱に正面衝突したといいます。エアバックは開き、自動車は大破し修理不能という惨事でありました。
 お父さんは一報を受けすぐに現場にかけつけましたが携帯でなく家の電話の子機を持ったままというほど動転していたそうです。そのまま病院に行きレントゲンを撮ってもらい結果は異常なし、自覚されるのは首のシートベルトが強くしまったあとが火傷のようにありましたが、他に大きな怪我はなく、幸いにも巻き込んだ人もおられませんでした。お父さんは『神様がこんなくらいで済ませてくださったんや。大難が小難に助けていただいた。ありがとうございました。行くとき私に、お父さんいってきますと笑顔で言って出た、あの子があのまま帰ってこなかったらと思うと本当にこれでよかったんです』とおっしゃられました。その日の昼からまた家族で参拝に来て下され、おさづけを取り次がせていただき、神様の前で御礼を言われていました。命あっての物種と仰せになっています。何事も命があってこそ初めてできるもの。人間の体はかしものの理で、すべて親神様の御守護が土台であります。
 事故にあっては、使い初めに参拝にきた意味がないととる方もいるかもしれません。その数日後、たまたま居合わせた所で、向こう側の方から話し声が聞こえ、そこで耳に入ってきた内容に驚き思わず聞き入ってしまいました。ある有名な神社で車をお祓いしてもらい帰りに神社を出た交差点で事故にあったという内容の話が耳に入ってきました。その人はもう二度と行くかと言って、また、お祓いの帰りに事故にあったことをその神社に抗議しにいったそうです。そうしたら怪我がなくてよかったじゃないですかと言われて余計に腹が立ったようすでした。ものの取り方感じ方は、心の自由を与えられていますので、ひとそれぞれ色々であります。起こるべくして起こり小難ですぎたことを喜べる心をつくることは素晴らしいことであると感じます。
 『成ってくるのが天の理』節から芽がでて成長するということは、良いことも悪いことも何事でも長い目で見ないと本当のところは分からないことであると思います。今回の事故で、娘さんは自分という存在の大切さ、自分が愛されていること、そして同時に両親のありがたさをひしひしと感じておられたように、涙ながらに話す様子から私は思いましたし、お父さんお母さんそしておばあちゃんも娘さんに同様のことを思われたと感じます。そして、なにより、面と向かって、感謝を伝えにくいと言っておりましたが、父と娘の心の距離は近くなったと感じさせていただきます。

 だんだんと神のしゆごふとゆうものハ めつらし事をみなしかけるで(2.5)

 自分からするとよくない出来事どうしてこんなことが起きるのかという事も長い目で見たときに良い結果がうまれるひとつのプロセスである、一つの線でつながっているとあとから思えるように、またそう導いていただけるように御恩報じを心がけたいと思わせていただきます。『命あっての物種』今ここに頂いている命は、非常にありがたいものであり、親神様の何か見えざる力によって我々が存在している、大きい病気を抱える人も健康な人も明日はわからない、今「生かされている」ことに「ありがたい」と思わずにはいられないのであります。


成ってくる

 私にとって会長に成らせて頂いてから、初めての修養科生さんをお与えいきただき、無事に3ヵ月勤めきられました。一生懸命ひのきしんに、また心の修養につとめられ、なによりも、喜んで帰ってこられた、最後の日に迎えに行くと、部屋もそのままの状態で、ずっとそこに住んでいそうなくらいでした。帰るのが待ち遠しい、早く帰りたかったら何日も前からすっきり片づけていそうなところを、逆に片付いてなくて、それほど楽しかったんやろうなぁと思い、そうやって喜んで帰ってこられたことが一番うれしく思いました。3ヵ月間近況報告いただき、実際の色々ある話も聞けて、別席等で天理に帰らせていただく際も、修養科におられると思うと、天理にいくのも楽しみで、共々によろこばせていただきました。同じ修養科に行っても感じ方は色々であり、月何百人という方が行かれても本当によろこんで、よかったなぁと帰ってくる方というのはほんの僅かであると思います。巡り合わせもありますし、無理に行かされているとかそういう心境の人も多いことでしょう。そんな中、本当によろこんでかえってこられたことは、神様にたいしてもこの教会にしても、御恩報じでありつまりは、親孝行な事であります。これは職場にたいしても言えることです。3ヵ月という長期間を気よく出してくれた社長さんに感謝と素直にいった本人の心が一つに合ったことが重要であります。
親への孝心は月日(神)への孝心とうけとる
と仰せになっています。これから色々と感じられたことを周りに孝心・還元いただけることと思います。親孝行といえば、私の母親が膵臓がんということが、つい先日にわかりました。膠原病から間質性肺炎という身上を患っていましたが、その関連の検査で偶然にわかりました。膵臓がんは『がんの王様』とよばれるくらいに厄介なもので、予後が非常に悪い、手術しても再発の可能性も高く、固形がんですので抗がん剤も効きにくい、その手術というのも大がかりなもので、合併症も多く残ります。小さい臓器ながらも血糖値を制御したり、消化を助ける酵素を出したりと重要な臓器であります。幸いにもまだ早期で、またできている位置が手術しやすい場所にはあるのですが、間質性肺炎をもつことから手術後に人工呼吸器を外せない、植物状態になる可能性があることから一か八かの決断となりました。病院側の余命はなにもしなければ1年程度と言われていますが、手術せずに神様にもたれていくということになりました。私は、病院で働くようになって5年くらいまでは、治療は受けて当たり前、がんになったら検査に手術に抗がん剤をするものと思っておりましたが、よくよく色々知ると医療が全てではないということです。がんというものは切れば散りますし、抗がん剤はDNA(遺伝子)そのものの働きを妨害するものが多く、細胞毒性が正常細胞まで影響がおよび命までをも消耗します。なので、場合によっては病院・医師の話を鵜呑みにするのは危険なことです。医療も神様から与えられた一つの修理肥であります。私の家は教会ではありませんが、母は熱心にお道を信仰しておりました。そこへ反発もあったのか天理教から離れていた自分というものがありました。しかしこうしてこの北播磨で前会長様から想いを頂き、皆様のお蔭でこのように成ってきました。いままで親孝行らしいことはできておりませんでしたが、教会長と成らせて頂いたことを母もとても喜んでいます。ですので、この北播磨分教会のお蔭で一番の親孝行ができたのではないかと思わせていただきます。お道以外の人からすれば、到底理解ができない事柄であると思いますが。全てが成ってくるように成っており、実感して初めてわかるすばらしい道であります。
 『しようと思ても成らん しようまいと思ても成ってくる』


いろいろあっても

わたしのたすかり
 『身上のさわりも事情のもつれも、
          ただ道の花として喜びの中に受け取れる』教典85項
 私は、親が離婚した家庭に育ちました。親も子も共々にやりきれない事情であります、私は、子供からの立場ですが、そういう悲しさや苦しさを一通り味わいました。しかしそのお蔭で色々なことが見えてきましたし、自分はいい家庭を持とうと、そういう風に思いながら、今幸せな家庭をもてた、そして神様の事もさせて頂いております。寂しさや苦しさもあって親の事を不足に思う時もあったけれども、導かれるようにそのしこりを消化できた、色々な日があるけれど、心が澄まぬまましこりを残すのではなく、お蔭に変える、これが一番の助かりであります。そのまましこりが残ったまま終わったら「しょうむない」人生ですが、今では一つも両親にそのようなことは思わないようになりました。人よりも一つ多くの事がわかる、恨んだまま、悲しいままの人生ではだめやと、そのままでは、今と全然違う道を歩いていたことでしょう。色々不足に思ってもいいけれどそのままでは終わらない、親孝行にかえることができたのはこの道のお蔭、この道が助けてくれた。これが一番の私の助かりであります。こうしてこのことを話すようになれたことも抜け出た喜びであります。
 喜びは広げるものであります。病気や家庭の事とか、身上事情いろいろあっても、それが起きたからだめなのではなくて、そういう中を通った人は、その苦しみが分かる、人は通った道しか知りません。それをまた同じような苦しみで悩む人に、話を聞いてあげたりとか、治まりを願い寄り添うようにする、これが「ゆたつ」にもある、おたすけの一つの形として心がける、それは経験した人にしかできないことであります。ぜひそれを活かしていけば自分のそういう経験がお蔭に変わると思わせていただきます。この道は病気になったからとか家庭に色々あったからといってだめなのではなく、そこから良くなる、登って行けばよい、そうした真にたすかる道であると思います。
 もともとこの道は、おやさま一人からはじまった道であります。おやさまは貧に落ち切って、その苦しみに悩む人と同じ目線まで下がり、その気持ち苦しみを味わい、そこから一緒に上がってきたのであります。「谷底せり上げ」と言われます。本当に幸せというのは、人も自分も一緒に幸せにすることであります。それは、目の前にいる身近な人に喜んでもらう事、その一歩は喜びを広げる、喜べたことを伝えることであると思います。
 『ここはこのよのごくらくや』と仰せになっています。人に喜んでもらうと、今の世の中でなかなか得られない自分の居場所というとても大切なものが得られます。身近な人に喜んでもらうことで自分の居場所を見つける。ちょっとした事でも自分はこんなに喜んでもらえる役に立つ存在なんだと自身を認める事ができるというのは生きる糧(意味)でもあります。ある本を読んでいると、紙に表と裏があるようにすべてのものには表と裏がある、表が自分以外、裏が自分とすると表である他の人の事ばかり考えて自分を犠牲するというのは裏の無い紙をつくろうとするのと同じで、そんなものは存在できないのであります。
 いろいろあってもそれまでのことは一つも無駄ではなく、逆にそれぞれ通ってきた道だからこそできる、おたすけ、本当に人に喜んでもらえる事があるはずです。そしてそこに自分が必ず幸せになる道があり、『人をたすけたらわが身助かる』のであります。


嬉しいことがめぐってくる

おぢばがえり
 今年も「こどもおぢばがえり」に帰らせていただきました。「おぢばがえり」の意味は、「ぢば」へ帰るということであります。奈良県天理市にあるこの「ぢば」は人間創造の場所、人類のふるさとなのです。だから人々が親元を慕うように「ぢば」へ帰ることを「おぢばがえり」といいます。

 こうして「おぢばがえり」させていただきます中で、ひのきしんは、生かされている喜びが、おのずからその態度や、おこないにあらわれる、身体であらわすことであると教えられます。

月日にはどんなところにいるのも 心しだいにみなうけとるで(17.13)

 何も掃除をすることだけが、ひのきしんではなくて、人に喜んでもらうことがひのきしんであり、ひとそれぞれのひのきしんのかたちがあります。喜んでもらうことは言葉一つからでもできると感じさせていただきます。

言葉は道の肥(明治34.6.14)

「うれしいね」「ありがとう」「神様のおかげね」そのような温かい明るい言葉、嬉しい言葉が、人の心をつなぎ、人も自分も元気にし、人の心を育てると教えられます。
 今回、こどもおぢばがえりで、子供たちが楽しそうな喜んでいる姿がとても印象的でした。おぢばがえりから帰った次の日に、一緒に行ってくれた子に出会ったり、遊びにきてくれた時に「楽しかった」「来年も行きたい」と言ってくれたことが大きな嬉しい収穫でした。嬉しい喜びは広がりつながっていくものであります。

日々嬉しい嬉しいと通れば理が回りてくる。(明治34.7.15)

朝にお日様が昇り目が覚める。一日あっという間に過ぎていきます。この一日一日という当たり前のありがたさを、嬉しいと喜べる。毎日いろんなことが起こってきますが、嬉しいと思えることに気づき、嬉しい嬉しいと通れば、それが天に届き嬉しいことがめぐってきます。これが天然自然「天の理」と教えられます。楽しく、きげん良くしていると、なぜか必ずいい方向へ向かう。ようきぐらしを見てたのしむ神様のごほうびであると感じさせていただきます。

 月次祭のおつとめは、一番の神様への寄進であり、喜んでつとめる姿にご守護を実感できるのではと感じさせて頂きます。生きているのではなく生かされている、かしもの・かりものという、天の理・天の道筋である思召しをありがたいなぁと実感し、気づくことが信仰の始まりであります。そして実感するには頭の中で教理を理解するだけではできない、やはり信仰実践、日々を喜べるなかでご守護を実感できるのではないでしょうか。
 そうした中にも、おぢばがえりのすごさ嬉しさを感じました。また一度、皆様と「おとなおぢばがえり」させて頂きたいと思います。


できることを


 毎日を感謝の心で暮らすことが、周りの人をも幸せにする、これが良い匂いの身につく生き方といえるでしょう。・・・(特別号)
 感謝は誰にするのかと言うと、神様でもあり、身近な人、目の前の人であります。人への感謝の気持ちを持つことで、人に対して自分から、「何かできることはないか」と考え、実際に行動にできるようになると思わせていただきます。
 先日、夏休み最後の土曜日、私の母がまだ元気でいられることに感謝して、神戸の布引ハーブ園に一緒に行ってきました。そこで、ひとりの男の人に出会いました。「写真とってあげます」と突然声をかけられ、じゃあと撮ってもらいました。ハーブ園はロープウェイで山頂まで登って庭園を下るというコースですが、その方とはなぜか途中からずっと一緒になり、少し話を聞いていると、「毎日ここへきて写真を撮ってあげてるんや。旅行できても自分ではシャッター押されへんから」といって主に外国人旅行者の方にカメラのシャッターを押してあげているとのことです。そう言いながら、シャッターを押してあげた人の国にシールを張った世界地図を広げて見せてくださいました。アジアからアメリカヨーロッパまでシールが張られていました。「ひまやからなぁ定年退職してからしてるんや」と言いながら・・・そんな様子から、その方が何か自分にできることを見つけ、人に喜んでもらえることをされて、いきいきしたいい感じがしました。
 にをいがけというとひとつ布教活動です。知らない人から見ればなにかとてもあやしそうではありますが、とてもおいしいお店やお気に入りの場所があると、あの店の料理はおいしい、あの場所はとても良いところ、といって、まだ知らない人にそれを教えたくなります。そして熱心にそのお店に案内して、おいしかったと喜んでくれたなら、連れて行った人は二倍も喜んでいる。こういう姿が私たちの生活の中にはよくあります。にをいがけとはこういう日常にある事と同じであります。自分の感じたことをほかの人に伝えて喜んでもらいたいと思うのです。
天理教の、にをいがけは信仰する者の喜びの匂いを広げていく。本当にたすかった、ありがたい、良い運命への道がはっきりしたと、伝えたくなる、信者さんを増やそうとか数ではなく、本来ただその想いだけであるのが真実の姿であります。

 楽しそう幸せそうな姿が一番の「にをいがけ」なにかいい感じに良い匂いが身につくよう日々感謝の心で暮らしたいと思わせていただきます。

ひとことはなしハひのきしんにほいばかりをかけておく (7下り目1つ)

「自分が救かって結構やったら、救かったことを、人さんに真剣に話させて頂くのやで。」(逸話編)


ほんの少しのちがいが

 この世人間をおはじめ下されたときこの世は泥海でした。人間の陽気暮らしを見て共に楽しみたいとの思召しから人間を創られました。
たいないゑやどしこむのも月日なり うまれだすのも月日せわどり(6.131)

それ人間という身の内というは神のかしもの・かりもの、心ひとつが我がの理(おかきさげ)

命の誕生は奇跡の連続であります。受精卵一つからはじまるこの身体は、お父さんとお母さんの半分づつの遺伝子をもって一つとなります。一つの細胞は分裂を繰り返し遺伝子にのっとってタンパク質をつくり体の臓器や手足へとかわる。別席が9席、10席目の満席であるおさづけ拝戴と、よふぼくが誕生するのと同じように。受精卵からはじまり生まれだすまで十月十日、十全の守護のとおりに順々に生み出されていきます。
 人間は60兆個の細胞から作られた小宇宙であると言われています。その細胞一つ一つには遺伝子DNAがあり、遺伝子はこの身体の設計図、主にタンパク質を作る設計図であります。タンパク質には筋肉や内臓を構成するもの、血液を構成するもの、酵素を構成するものなど色々な種類や機能を持ったものがたくさんあります。
そして、人間は一人ひとり体格も容姿も違います、でも遺伝子DNAはほぼ同じであります。身体の中でも心臓や肝臓、腎臓などの内臓の位置は同じ、だから病院ではみんな等しく医療を受けられます。一人ひとり肝臓や内臓の位置が違えばなかなか治療できません。
このヒト一人の細胞一つに入っている遺伝子の情報量は新聞25年分という膨大な量であり、身体をつくり、またホルモンの働きなどすべて記されていますが、遺伝子の中にはタンパク質をつくる役割のある重要な部分であるエキソンは5%あと補助的なものが35%、何の役割もないものが60%あります。膨大な遺伝子のうち直接設計図となっているのは5%程度なのです。この5%の中にすべてが詰まっています。なぜほかの必要のない部分であるイントロンがそんなにあるかというと、もし何かの拍子にこわれるようなことがあっても被害を最小に抑えるためであります。コピーミスやウイルスに壊されるとしても、それが不要な部分でおきても影響はありません。
しかし、私たちは考え方をはじめ、○○さんといえばこの人というように、一人一人は全然違います。全体からみるとほんの少しのことでも、実は重要な部分も少しであり、そのほんの少し違いが大きな違いになってくるのであります。

一れつにあしきというてないけれど 一寸のほこりがついたゆへなり(1.53)

この世に悪い人というのはいるわけではなく、少しほこりがついたせいである。

 心は特に唯一自由を与えられておりますが、心の向きが少し変わる、目の前の人のことを思えたときこそ大きな心の転換となると思わせていただきます。
別席は9席あり、1席お話を聞いては、日常生活を送る中で、いろいろと起こってくる事に悩んだり喜んだりするなかで消化し、その上でまた聞く。さまざまな出来事にぶつかりいろいろな体験を経るうちに、さらに納得が深まり今まで気づかなかった事柄にも目覚めて、その話がいっそう納まるものであります。それを繰り返して、月ごとに心の成人を重ねていきます。胎児が月満ちて生れ出るように、「おさづけの理」を頂くときが、生まれ変わる、ようぼくなること、それは自分のことばかりでなく、目の前の人のことを思える人になれたとき、そして「助かりたい」から、助かってもらいたいと神様に願えるようになる、それが自分の新たな誕生の時であるとお聞かせいただきます。また、人に喜んでもらうということは、人を応援できることでもあると思います。応援されていやな人はいません。応援されると自分が認められている、居場所や価値である自己肯定感が高まりとても嬉しいことであります。
おさづけの理拝戴をされると、ようぼくになります。陽気ぐらし世界建設に必要な用材での意味で、神のようぼくと言われ、陽気ぐらしを自ら実践し、土地処の成程の人となる。また人の幸せを願う、陽気ぐらしという神様の思いを実現するために働くことを本分とする立場であります。そしておさづけは神のようぼくになる者の心に授けられる天の与え、神様にお願いできる特別な救済手段、真実の祈りの姿なのであります。


どのようなときでも

 季節の変わり目ということで体調を崩されている方、また何か疲れやすい、調子がよくない方もおられることと思います。私も季節の変わり目には口内炎になったり、身体がだるかったりと色々な事があります。
 口内炎には種類がありますが、大部分はアフタ性口内炎と呼ばれるものであります。原因は不明ではありますが、ストレスや疲れたとき・抵抗力が落ちたときになると言われています。
 私の場合は一度なると、初めは傷から始まり、白く潰瘍となり、腫れてある程度大きくなって治っていく。毎回思いますが初めのうちに気を付けて薬をぬったりしても、この一通りの経過をたどる。自分の力ではどうしようもなく、ただ治るのを待つだけであります。症状は一番大きくなっている時期はかなり痛みを伴いますが、やはり治まりを願うしかありません。

「思うようにならん/\というは、かりものの証拠」(おさしづ 明治21年7月28日)

 私たちの身体、この神様からの守護で満ち溢れた身体は精密なバランスが保たれております。私たちの意識ではどうしようもないというのが事実であります。だから、調子の良いとき、悪いとき、いろいろな時があって当たり前なのであります。とくに季節の変わり目は「不定愁訴」といって身体自体はとくに悪いところはないけれども、身体全身に様々な具体的にしんどい症状(疲れやすい、頭痛、異常な首筋のこり、腹痛、その他)が現れる方が多く病院でもおられます。 原因はいろいろありますが、私たちではどうしようもできないホルモンであるとか身体の微細なバランスが崩れている状態です。症状が激しくなる場合もあり、なにか悪い病気かと不安になってしまう事もあるかと思われます。
身体を大切に生活や食事に気を付けることはとても大切であります。その上で調子が悪くなるというのはこれは仕方のないことで、なんでこうなったとか、悪い部分ばかりに気が向き、治るだろうかとか、○○ができないと不足に思いがちであります。身体自体は医療では対処するところが無い以上、こういう症状になるものがあるということを知ることと、うまくやりすごすことが大切であります。
陽気ぐらしの先頭にたつのがようぼくであります。
先日、おさづけの理拝戴の方が1名ありました。ようぼく誕生という嬉しい限りで、前会長様も喜んで下さっていることと思います。 長男が風邪でものすごく調子がわるく、この感じでは到底天理まで無理であろうと、家で休むかと聞くと、「おぢば」やから行くと言い、一緒に来ておりましたので、おさづけの理拝戴直後におさづけを取り次いで頂き、そのあと3人、合計4人の方に取り次がれ、すごいなぁと思いました。いろいろありましたが、帰りにはみんなで一緒にご飯も食べ機嫌よく帰ることができました。
 病気や事情がきっかけで教会を訪れ、たすかる道はないかというときに、おぢば帰りをして、神様のお話を聞かせていただきましょうと別席を薦める。自分のたすかることと、おぢば帰りの間にはどんな関係があるのかと、疑問に思う事であります。しかしこれは、天保9年の立教の事情が現在、その人のうえに再現されていると言われています。立教のはじまりとなったのは、中山家の長男の足の痛みをたすけていただきたいという願いがきっかけでした。それに対する親神様の啓示は、足の痛みを助けるどうこうではなく、「我は元の神・実の神である。この屋敷にいんねんあり。このたび、世界一列をたすけるために天降った。みきを神のやしろに貰い受けたい」という内容のものでした。これは昔の遠い神話のような出来事ではなくて、私たちに無関係なことでもありません。むしろ身近なもので、親神様が「我は元の神・実の神である。このたび世界一れつをたすけるために、あなたを神のよふぼくとしてもらい受けたい」と語りかけられておられると仰せになります。その人がようぼくとしての道を歩む一歩一歩の中にその人がたすかるということが含まれているのであり、立教の元一日と私たちのよふぼくになる理(過程)はとても似た構造であると思わせて頂きます。


こころ

 来月には、おやさま130年祭がつとめられます。130年祭は通常の年祭(法事)ではなく、ご存命のおやさまのひな形を通るようぼくが成人の道をたどる上での大きな旬であります。一歩でも歩んだその成人の姿をおやさまに見てもらう時でもあります。
成人というのは、子供が成長して大人になること、心身が発達して一人前になることという意味ではありますが、難しく捉えるものではなく、少しでも一歩でも日々を陽気に通ることができたか、ということでもあると思うのであります。
 おやさまは「この道はどんな時でも心の使い方ひとつで陽気に通ることができる」と思し召しになられました。現代、心の使い方が身体にとても大きく関係していることが、科学的にも証明されようとしています。そしてそれは、おやさまの教えが科学でも明かされようとしていると考えるのであります。
 先月SWITCHという映画を見る機会がありました。この映画は、村上和雄博士という、高血圧の黒幕であるヒトレニンの遺伝子解読に成功された遺伝子研究で世界的権威の先生が作成されたドキュメンタリー映画であります。遺伝子にはスイッチがあるという内容であります。
 遺伝子は生命の設計図でありますが、設計図というと生まれつき決められ生涯変わることないものというふうに思いがちでありますが、実際にはその時々の身体の環境や心の状態などによって絶えず変化している心のような柔軟性があると言います。人とチンパンジーの遺伝子はよく似ていますが、同じような遺伝子であっても、遺伝子のスイッチがオン・オフされるタイミング、順序、パターンなどの違いによってヒトとチンパンジーの差が生まれる、同じ種の中でも個体差が生じるといいます。遺伝子の95%は眠っています。この眠っている遺伝子のスイッチが入ることで無限の可能性があり、そしてこのスイッチのオン・オフは環境によって作動するのであります。人間にとってもっとも大きな環境は心の状態。心の環境が遺伝子の働きにもっとも強く作用すると述べられています。
 私たちの体内では、ストレスを受けるとコルチゾールというストレスのホルモンが分泌されます。笑顔で笑っているとオキシトシンという癒しのホルモンが分泌されます。このコルチゾールもオキシトシンもホルモンですのでタンパク質ということになります。タンパク質を作っているのは遺伝子ですので、笑っていると「癒し」や「よろこび」といった、心身に嬉しい作用のあるホルモンを作る遺伝子にスイッチが入る、ストレスホルモンもよろこびホルモンも心の状態を受け、遺伝子によって、今この瞬間にも生み出されているのであります。だから笑顔で陽気ぐらしの生き方というのが良い遺伝子にスイッチが入る一番の方法なのであります。

「心の理が難しい」
この道は聞けば聞くほど難しいと言う。難しいやない。心の理が難しいのや。
(おさしづ明治24.3.23)

 天理教の教えでは、「陽気ぐらし」や「かしものかりもの」といった簡単な一言で究極の教えが表現されています。素直に心の底から陽気になることは、頭ではわかっていても心にとってはとても難しいことであります。
 仕事でも日常でも感じますが、できないことや分からないことがあっても、それがだめなのではなく、すごくできる人、わからないと素直に言えない人より、 「わかりません、教えてもらえますか」とどのような立場であっても、素直に弱さを見せることができる人のほうが、逆に強く、低い心であって、人からも神様にも好かれ、道が開けると思うのであります。それができたとき心の変化とともに遺伝子にスイッチがはいるのであると考えるのであります。


この十年

 本年も皆様にとって来る一日一日が一番幸せに通ることができますようお祈り申し上げます。
 先日、1月4日に鏡開きのひのきしんに参らせて頂きました。この機会をいただき、ありがたかったなあと思うのであります。
御本部の鏡開きと言うとテレビにも放送される風物詩であります。当初、私1人で行く予定でありましたが、急きょ家族全員でおぢばに帰らせていただくことにしました。朝5時に出発し、本部で用意された白衣に着替えさせていただき、役割が振り分けられ、はじめに大量の巨大な鏡餅を運ばせていただき、その次はお餅を御雑煮サイズに切って、もうひたすら切り続けました。餅切機は500台くらいあったのではないかと思うのですが、すべてよく切れるように整備してならべてあり、また軍手の色が紺色で、なぜ白ではないのだろうかと思いますと、それは白ですとお餅と同じ色で間違えて手を切ってしまうというという事故を防ぐ為でありました。ひのきしん中も事故のないように放送が流れており、気遣いが感じられました。ひのきしんにあたる人も大勢おられましたが、ひのきしんを受け入れる側の準備や配慮の方も大変なものだなぁと感じさせていただきました。昼頃には終了しました。見返りはありませんが、お金では買えない、ひのきしんという足を運んで得られる、さわやかな気持ちになり、何かいい感じ、貴重なありがたい経験をさせて頂きました。

よくをわすれてひのきしん これがだいいちこえとなる(11下り目1つ)
ひのきしんは心の栄養に、そして心の建て替えにもなるとお教えいただきます。

 お餅運びのとき、南礼拝場の結界の中、「かんろだい」の近くまで入らせて頂いたときに何か懐かしく思うことがありました。
いよいよ130年祭であります。今思えば、十年前、120年祭の頃は、仕上げの年に私たち夫婦が結婚した時分であります。異例にも教祖殿ではなくかんろだいの上段にて結婚式をさせて頂きました。お餅を運ぶ時にちょうど南礼拝殿を通りふっと思い出しました。そして上の子が産まれる年、まだおなかにいる時にお節(節会)に行かせていただいた。それがちょうど10年前の1月にあたります。今年と同じように温かいお正月でした。そして10年たって、10年前では思いもしないことが成り、結構にとおらせていただいております。10年ですべて大きく変わる。年祭年祭と言いますが、ぴんとこないという方も少なくないかもしれません。ですが自分の通ってきた人生と照らし合わせてみると10年ごとに不思議なことが起こっているのではないかと思うのであります。今幸せに通らせて頂いている感謝も込めて130年祭に足を運ばせて頂きたいと思うのであります。


道は続く

 130年祭も無事に運ばせて頂きました。ニュースにもありましたが、当日は20万人という天理市の人口の4倍近い大勢の参拝者が御本部神殿に集まりました。すべての人が明るく陽気に心を澄まして暮らせるよう、かぐらづとめ、てをどりがつとめられたのであります。当日足を運んだ方も、運べなかった方も、十年後なおも結構な姿で迎える事ができますよう新たに仕切って、においがけ・おたすけ・ひのきしんと御恩報じの道を、先を楽しみに通らせていただきたいと考えさせて頂きます。
 先月十年ごとにいろいろと不思議なことがあると申しました。私にとってその一番はこのご縁で教会を預からせて頂き教会長をさせていただいていることであります。天理で生まれて、教祖110年祭のとき神戸で阪神大震災に被災し、120年の頃ご縁を頂きまして結婚、そして130年祭は教会長で迎えさせて頂きました。
 神殿講話で真柱様は「今日まで三年千日と仕切って進めてきた教祖130年祭へ向けての活動に、精一杯努め励んでくださったことに、心からおねぎらいを申し、御礼をもうしたいと思います。誠にありがとうございました」と述べられ、「三年千日の中で蒔いた種が、実を伴うものになるよう努めるとともに、これからの道を通る中で、長い目で人を育てる取り組みをはじめ、陽気ぐらし世界実現への着実な歩みを勇んで踏み出していただきたい」と仰せになりました。
続いてこそ道というおさしづがあります。

つゞいてあつてこそ道といふ、つゞかん事は道とはいはん、いへやうまい   
(明治三九・五・二一)

人間しあんはひさしくつづかん

ようようここまでついてきた じつのたすけハこれからや (三下り目 4)

とお教えくださいます。人間のしあん(思い)では、良い種を蒔いたらすぐに良いことが起こるとか、何事も頭で計算して、どうしても先に先にと案じてしまいがちでありますが、この道は10年後20年後の先をも楽しみに、神様にもたれて通る道であります。また、この教えは生涯末代の道であり、世代を重ねることによって理は深くなり、続いてこそ道であるとお教え頂きます。続くというのは、親から子へ、子から孫へという、縦に伝わっていく事が求められるのであります。
 外へ出てにおいがけするもの大切と思いますが、外に出なくても周りにはたくさんの人がいます。身近な人ににおいがかかる、子供や孫ににおいがかかる事が非常に重要なことではないかと考えるのであります。そして、においがけは普段の生活そのものであると思います。身近な人、目の前の人を大切にする、ちょっとした事がひのきしんになるのであります。
「無理してはつゞかん」と仰せのように、無理を重ねて続けるのではなく、自分のできる範囲で、人にたすかってもらいたいという心を具体的な行動にし、自分ができること、また、自分が通ってきたからこそ分かる気持ち(病気になったことがある、挫折したことがある等)を活かし、自分にしかできないことで人に喜んでもらうことが大切であります。


よきとうりょう

 先月は一人の方がおさづけの理を拝戴されました。この9カ月間本人にとってはいろいろ思うところがある中、素直に席を運び、またおさづけの理を拝戴されたことは、共々にうれしい限りでございます。また、先月も今月もちょうど日が合い、月次祭をつとめてくれています。皆様方にも新しいようぼくの彼をよろしくお願いしたいと思います。

よきとうりやうかあるならバ はやくこともへよせておけ(十二下り目四つ)

「よきとうりやう」というのは、悟りの早い人、感謝報恩の念の湧き出る人、人をたすけたいという心の人、親孝心の強い人を言います。「こもとへよせておけ」とは、このような人を親神様のもとに近づかせて、神と人間、教祖と人間の深い関係を結ばせておくことである。この新しいようぼくの方が席を運んだのには元々は親孝心からであります。旬が来て親の信仰が子供に伝わる。親が通ってきた道を子供が素直に通ってくれるというのは、なによりも一番の親孝行であると思うのであります。彼のお父さんはブルガダ症候群という身上をお持ちになられています。ブルガダ症候群というのは、心筋梗塞や心不全といった病気が全くないにも関わらず、心室細動という心臓が痙攣し全く働くことのできない直接死につながる状態になる重症の不整脈をいきなり起こすと言った病気です。彼のお父さんは発作が起こってしまい、2時間心臓が停止した状態になりました。ですが、奇跡的にも脳に後遺症は残ったものの御守護をいただかれました。席を運ぶことになったのは、お父さんにおさづけを取り次ぐという真実の想いからなのであります。
 ブルガダ症候群では心筋の活動を制御するタンパク質の先天的な遺伝子異常が原因であると報告されていることで、本人にもその気が少しあると言います。
 ようぼくになりこの道を通る過程で、かみがたしかにうけとりている と仰せのように、これからは少しづつ 運命は変わり、大難は小難に小難は無難にとお導きを願うばかりであります。きっかけは人それぞれですが、天理教は決して堅苦しいものではなくて、「陽気ぐらし」という目標にむかって心をふしん(たてかえて)いくものであると思います。かたちばかりにこだわると何か窮屈なものになってしまいますが、本来通って楽しい道と思います。そのように共々に歩んでいきたいと思います。

 先月はもう一つ大きな節がありました。当教会役員で理徳布教所の所長さんがお出直しになられました。理徳布教所長として長きにわたり、この道を勇んで通られました。教会の月次祭には毎月かかさずにおつとめ下さり、御用の上にも当教会にはなくてはならない存在でありました。約二年前、当教会の初代会長様出直しの折には、寒さ厳しい季節の中、早朝より日々の献饌から、朝づとめ、神殿掃除、夕づとめを毎日、誰にどう言われるでもなく、黙々とつとめられた姿は、私にとって忘れることは決してありません。私達夫婦が教会を預かるまでの半年間きっちりと教会を守ってくださいました。そして私たち家族が教会に入ることを誰よりも心待ちにしてくださいました。何もわからなかった私ではありましたが、細い芯に肉を巻くように、温かく迎え入れて、見守ると共に助言やいつも味方になってくれていたことは、今の私共の礎であります。北播磨分教会のとうりやうとして、歩んでこられた上には道が続いています。これからも一手一つに成人の歩みを進めさせて頂きたいと考えさせていただきます。ありがとうございました。


節から芽がでる

 先月、北播磨分教会にとって一つ大きな節がありました。ご存知のように初代会長夫人が3月19日お出直しになられました。私は病院にいる合間に、おさづけを取次に行かせて頂くことも多くありました。そんな中、ある時、いつものように病室に参りますと、「あんたなぁおじいさんがよろこんでやで ありがとう」とハッキリとおっしゃってくださいました出来事がありました。それが私にとってはっきり聞こえ、会話となった最後の言葉でありました。(2月の末)私が北播磨の教会に覚悟を決めて、想いに沿わせて頂きたいと夫婦親子で心を定めた時の事が思い出され、その背中を押してくださっている気持ちになったのであります。まだまだ届かぬところも多くございますが、初代会長夫妻の意思を受け、日々邁進して参りたいと存じますので、皆様方にはこれからも一手一つに教会の御用に、一人ひとりが主役の気持ちで、よろしくお願いしたいと思います。
 初代会長夫妻の続く道の上にある想いは、一つ神の用木として使命であります。
「又一つ、第一の理を諭そう。第一には、所々に手本雛形。 諭す事情の理の台には、日々という、日々には家業という、これが第一。又一つ、内々互い/\孝心の道、これが第一。二つ一つが天の理と諭し置こう。」おかきさげ
 おさづけを頂く時に渡される「おかきさげ」であります。おさづけを頂いた用木は、国々所々のお手本となるよう日々、御教えを心に治め、心を澄まし、それぞれの地域で成程と言われるよう目指して通ることが大切なのであります。そうするには、日々という、この普段の生活こそ、陽気に感謝して暮らすことが重要ではないかと思うのであります。要所要所だけが良いのではだめだと仰せになっています。また、「日々には家業という」と仰せのように、普段の生活の中で家業(=仕事=子育て=家事=役割・それぞれに与えられた使命)は大きな比重を占めています。いろいろあるけれども、まずめいめいの家業を大切にすることが第一であると仰せになっています。
 これと合わせて、おさづけの理を頂いた者は、用木としてもう一つの新しい家業にもまさる使命を授かったのでありますから、しっかりおさづけを使わせて頂きこの両方を合わせて「家業が第一」と仰せ下さっています。また一つお互い親に孝行することが第一大切であると仰せになられ、親孝心というのは、産みの親にしっかり親孝行し、安心してもらうと同時に、親神様への孝心の道を尽くさせて頂くということが含まれているのであります。産みの両親への孝心は家業を大切にすることが直結します。親神様への孝心は用木としておさづけをしっかり使わせて頂くということで直結します。そして「二つ一つが天の理と諭しおこう」と仰せのように、親孝心という事と、家業が大切ということは、二つ一つなのであります。
 先日、息子が春休みに入り、遠くまで歩こうということになりました。それで、社の大教会まで行くことに決めました。同じ歩くなら、においがけしながら行こうと思い「いきいき通信」を携えて行ったのであります。普段車で通るとすぐなのに、歩くと中々遠く感じる道のりでした。出会う人に挨拶しながら、息子も進んで「いきいき通信」を配る様子を目の前にしました。楽しみながら喜んでにおいがけをする小さな姿が、よかったなぁ不思議やなぁと思うのでありました。息子と二人においがけに歩かせていただき、思いがけず嬉しくなりました。
 何にしても、動機というものが大切で、親孝心の思いから家業に精励する事と、見返りを求めず親神様・おやさまにお喜び頂くために、その思召しに添うて、しっかりおさづけを使わせて頂く、身近な人に助かってもらいたいと、幸せを真に願い、にをいがけ・おたすけに精励する事、この二つ一つにして、つとめることが、「所々に手本雛形」と仰せられる第一の理を果たすことになるのであります。
「さあ、これより先永くかわらん事情に」
一人ひとりに与えられている事を喜んでさせていただくことが大切であると考えさせていただきます。


教 会

 思えばこの北播磨分教会は、初代会長夫妻が一手一つに、いかなる中も陽気にとおり、昭和63年に設立されました。社大教会でも一番新しく、そして初代でここまで大きくなられたというのは、初代会長夫妻をはじめ北播磨につながる皆様が真実を尽くされた、神様の不思議な御守護の姿であると考えさせていただきます。
 天理教の教会というのは親神様・教祖のお出張りくださる土地所の参り所であります。そして、ようぼくは、世界たすけの拠点である教会の一員であります。人はそれぞれ家庭での役割、仕事での役割、と色々な役割を担っているものでありますが、教会での役割というのは、おつとめをつとめることを始め、ようぼくとして、尊いものであると思います。

「本部という理あって他に教会の理同じ息一つのもの。この一つの心治めにゃ天が働き出来ん」(おさしづ 明治39年12月13日)

 先日に、私の父と母が、かねてから事情教会(会長・後継者不在の教会)を継ぐという話があり、物事が運び、めでたくも会長就任奉告祭がありました。教会は神戸の東灘区は駅の近くの住宅地にあります。母の方は以前に申しましたように、1年前すい臓がんと診断され、進行が早ければ、半年〜1年というふうに言われておりましたが、重い身上を抱えながらも教会に心を定め、奉告祭を体調よく迎えることができて、とても嬉しく思わせていただきました。
 地域に陽気ぐらしの姿を映す事は教会の、そして教会の一員であるようぼく一人ひとりの役割の一つであります。堅苦しく考えて、においがけに出るのではなく、重い身上をお見せ頂きながらも、陽気に日々を感謝して暮らすこと自体が、においがけになり、信仰の喜びを広げ、周りに陽気ぐらしを映している姿であると考えさせていただきます。


導 き

 今月の天理時報特別号の見出しは、「親孝行な子を育てるには子供のことを喜べばいい」でありました。
 親を喜ばせることは子供の徳となり、未来につながる「幸せの種」になる。また、親が子供のことを喜ぶことが、親孝行と同じくらい大切で、子供の親孝心を育み良い方向へ導くことになるのであります。
 私の神戸の父と母が、事情教会を継ぎ奉告祭が無事に執り行われた話を先月少し申しました。母の方は重い身上をかかえながらも勇んで通っております。
 現在、お道の御用の上によく言われている事に、親から子に信仰が伝わらない、という事があります。親が熱心に信仰していても、子供は避けていたり、興味がなかったりする。私もそういう子の一人であったように思うのであります。それが今では、不思議なご縁で教会長をさせて頂いております。日々できる御用を勤めさせていただいておりますが、親としてはどんな事をするよりも、同じ道を通り繋がった、特に母はこのことを一番喜んでくれていると思うのであります。それは、ある意味では、今まで親孝行しきれていなかった私にとって「親孝行への神様の導き」という、一番の御守護であり、たすかりであると思うのであります。

助けて欲しいと願う人を助けに行く事が、一番のご恩返しやから、しっかりお助けをするように。あんたの救かったことを、人さんに真剣に話させていただくのやで (逸話編)

人を救ける心は真の誠一つの理で救ける理が救かるという(おかきさげ)

人を助けたら我が身が救かるのや 「救かりたいでは救からん。人助けたら自分が勇んで暮らせる」

 そのような言葉が思い浮かぶ出来事があります。先月は3名の方が初席を運んでくださいました。その3名の方に、においをかけたのは当教会役員奥さんであります。役員奥さんは、乳がんという大きな身上を抱えながら、今元気に通らせていただいている喜びを、そしてまた、いろいろな思いを経験し通ってきた道だからこそ、人に救かってもらいたいと、何か抱えている人が身近にいましたら教会に連れてこられたり、においがけにおたすけに勇んでおられるのであります。別席場で不思議と微妙な時間差で最終のお取次ぎとなり、時間が空いた時には一生懸命、自分の救かった話をされている姿は、真の誠一つの理でありました。 においがけというのは形は人それぞれであります。今まで一人ひとり通ってきた道も違うものでありますし、かかえる身上や事情も一つとして同じではなく、そうした上にめぐり逢い、縁のある人が「いんねん」よせて、神様よりお与えくださるのであります。事情や身上(病気)というのはその立場になってみて初めてわかることが多いものであります。ですので、自分と同じような、悩みであったりとか苦しみ抱える人に救かってもらいたいというように、それぞれが通ってきた道だからできる、本当に人に喜んでもらえる事が、皆あるはずであります。そして、そこに自分が本当に幸せになる道があると考えさせていただきます。


こころのみち

 元のいんねんというのは、親神様が陽気ぐらしを見て共に楽しみたいという、ぢばにおいて人間を創造されたという元初に由来するいんねんであります。

いんねんというのは心の道・・・おさしづ明治40年4月8日

「善よき事をすれば善き理が添うて現れ、悪あしき事をすれば悪しき理が添うて現れる」という法則が、いんねんの理であります。
 また、いんねんの自覚という言葉があります。個々の身の内に今現れてきている結果から、過去を省みる一つのプロセスであります。ですが、けして過去を責めたり、過去にとらわれるものではありません。また、いんねんの自覚は、悟りの教理であり、誰に教えられることも、決めつけられることもない、自分で自覚、悟ることしかないのであります。そういう意味でも、毎日の忙しさで自分を見失いがちな人が多い中、行き詰まりを感じる中での、そのような自己分析、自身の心の整理としてもとても重要な作業ではないかと思うのであります。そしてまた、このような いんねんの自覚は信仰の出発点であります。なぜ自分は信仰することになったのか、自分を振り返る、親であったり先人の方々の想いであったり、そういう事をたどる作業でもあります。その中に自分が今、結構に生かされているということへの恩を知ることが大切なのであります。一つかしものかりものの理が重要であるという根底には、陽気ぐらしを見て楽しみたいという元のいんねんがあります。その人間創造の元のいんねんと、自分の魂のルーツをたどることは同じ事であると考えられます。

不思議が神の姿
 私は北播磨分教会の教会長にならせていただきました。元々は全然関係のないところから来たのであります。なぜ教会長になったかと言うと、初代会長様また大黒会長様に頼まれた、そして一度はお断りましたが、受けさせて頂きました。このような話が私共に回ってくること自体が大きないんねんとも呼べる力が働いているのだと考えます。私は、初代会長様と名前が変わった回数が同じ、婿養子、信仰は2代目、奥さんが3つ年上という不思議な共通点があります。

「・・・通らねばならん、又、通さねばならん」(別席)

人生は選択の連続であります。いろいろあっても、良い運命に切り替える事ができるよう神様が用意してくれる方の道を選択しなければなりません。 
 私は母が信仰初代で事情により入信されました。その事情がいんねんであると考えています。6歳の頃母が私を連れて修養科に入り、12歳で神戸の震災に遭いその影響で、天理市に引っ越し、詰所で暮らし、おぢばの学校で学び、臨床検査技師になり、そしておぢばで出会い結婚し、二人の子供に恵まれました。一連の流れは、天理教が嫌いであった私にとっても、この道から外れないようにひきよせられているという、強い縁を感じるものでありました。
私の場合ですと、良い運命に切り替える事ができるよう神様が用意してくれた道は、人生を180度変えてこの教会の御用をつとめることであった、それが三方よしとして、すべての親孝行につながる道であったのだと確認(自覚)するのであります。もし、いやだと逃げて、お道から離れても、先々ではまた事情がでてくる気がするのであり、そうなれば納消(なっしょう)の道は難しいであろうと考えるのであります。こうして通らねばならん道を選択することができたというのは、私や妻の親、初代会長様という親の信仰があったからこそであります。

 いろいろあったことをたどるというのは、今さらながらに事情や身上が深ければ、辛い作業のとなるかもしれません。自覚というように、その人に応じた時旬に一番いい形で悟ることができると考えるのあります。そしてその土壌の上に、しあわせの種を蒔くことができたなら、良い方向に向かって一直線に進む事ができるのだと思います。神様が用意してくれる道というのは、往還道であります。往還道とは広い道のことであり、通りやすい道、そしてその人にとっての正しい幸せになる道であります。往還道を歩くには往還道に向きを変えて、出なければなりません。
 成ってくるのが天の理といいますように、あまりよくないことであっても、よくよく考えてみますと、それは、良い結果にたどり着く重要な流れのひとつであるというのは、よくある事であります。

 なぜこういう事をお話しようと思ったかと言いますと、本当のところは、やはり私の心の中が切り替わった。この教えだから生まれ変わることができたという一つの点であります。こうして皆さんの前でお話しさせて頂くまでになれた事が、またひとつ、いんねんを昇華できたのであろうと考えるのであります。

 過去の事という、そういうことがあって自分がある、そうして恩というものを自覚する。何のために信仰するのか、私は、往還道に出る為に、そして往還道に出たなら、脇道にそれないで、歩き続ける為に求道するのであると考えます。信仰とは非常に難しい事でありますが、宗教自体に意味を求めるのではなく、通っている内に気づいて、心が切り替わる、それを喜ぶ心のありようが大切であると考えさせて頂きます。


おぢばがえり

 先月には、こどもおぢばがえりが無事に全行程を終了させて頂きまして誠に喜ばせていただいております。引率・またひのきしんにて参加くださいました方には誠にありがとうございました。今回のおぢばがえりは少し心境に変化がありました。それと言うのは、おぢばがえりの直前に、社大教会で縦の伝道講習会というものがありまして、そのお話の中で、「この家(ぢば)へやって来る者に、喜ばさずには一人もかえされん。親にとっては、世界中の人間は皆子供である」という教祖の有名な話を引用され、おぢばへ帰ってきたならみんな喜んで帰ってもらえるように真心こめて接することが大切なのであり、おぢばがえりの引率というのは、只々楽しませる、また行程を終えるだけではなく、「子供たちをおぢばにお連れする」という所に要点があると話されたのであります。
 毎年の恒例行事という意識から、別席と同じように子供達をおぢばへお連れしているんだという意識に変化したのであります。特にこの地域では未信仰家庭の子供達の参加が多いこともあり、こうしてまとまった団体で、人様の子を喜ばす事ができるというのは、普段では中々できない、すごい大きな「においがけ」であると考えさせて頂きます。その様な中臨んだおぢばがえりでは、大きな事故もなく喜ばせていただいておりますが、私事でありますが、今年は夜に何回も起こされる事がありました。夜の1時位に寝ていると男の子が二人で起こしにきて、寝られへんと言いますのでとりあえず部屋に行って少し話をしたりとか、そうしながら一緒に寝転んで・・・3時位にまた起きたので、またすぐ起こしにくるわーと一端、スタッフ部屋に戻ると次の朝6時に起こしに行くまで、寝ることができたようで元気に起きてきました。これまでとは少し違い、やはり人様をお連れしているという意識に感化された事で、早く寝てほしいなぁと思うことから、まぁ一緒に寝てたらいいかな。と自然に付き添うことができたように考えます。
教会長になるまでそのような、御用はしたことなかったけれども、このように人を連れておぢばにかえらせて頂く使命を神様から頂いて本当に幸せであると思わせて頂きます。息子にも将来に同じような喜びを味わってもらえたら嬉しいなと感じさせていただく、今年のおぢばがえりでありました。
 ある本を読んでいますと、ある調査によると、心身ともに健康的な人生を送った人に共通するものとして、「至高体験」があるそうであります。至高体験といいますのは、自分の持てる能力を十分に発揮したときに、この上もない喜びの境地にひたることであります。それは別にすごい能力が必要なのでも、どんな立場であっても関係なく、だれもが体験できるものであると言います。たとえば、お母さんが手間をかけて料理を作ったとしまして、それを食べた家族や大切な人が心からおいしいと喜んでくれたら、それは最高の喜びであると思います。私は、幸いにも運動のできる身体を御守護戴いております。そうしたお陰で、子供とキャッチボールをしたり、近所の子供達と野球やサッカーをしたりして遊びながら共々に楽しまさせて頂く中に喜ばせて頂いております。ひのきしんでもそうでありますが、人に喜んでもらう、このような喜びを積み上げていくことは、すなわち人をたすける心であり、人生を充実したものにする最良のたすけ一条の道であると考えさせていただきます。今月もこのように通らせていただきたいと思います。


天の理 2016年9月

 ありがたい事に、先月の8月8日に教会前の教会境内地玄関口に石碑を建て据えていただきました。
表は北播磨分教会、裏面には「みかぐらうた」の第一節・第二節・第三節が原文の変体かなで記された歌碑となっています。教会の看板となる素晴らしいものであります。この石碑はある方によって御供え頂いたものであります。その方はお母さんが熱心なお道の方であったそうで、教会は違いますがお道に関係のある方であります。そうした中、40年ほど前、ご自身の結婚式の前日に足が立たなくなったそうです。それを不思議な縁から、吉山先生に助けられたそうであります。その当時、何もお礼できなかったので、ずっと考えていたのですが、今回この石碑を御供えさせていただきますと、おっしゃっていただきました。そうして喜ばせてい頂いているのでありますが、その10日ほど後であります。その方が体調を崩されて病院にこられました。7・8月は暑い日が続きましたので、炎天下での仕事がこたえて熱中症気味で体調を崩され、点滴をされておりました。私はその日は、珍しく採血担当でありましたので、点滴の部屋におりまして、出会う事ができ、さらに、おさづけを取り次がせて頂くことができました。外来では人が多いので、勇気がいりましたが、喜んでいただけたようでほっとした訳であります。そうする中でふと思い出されることがあります。その方に初めて出会ったのは、2年前の9月でありました、1つめのお墓を建てさせて頂く事が決まった折、顏も何も知らなかった筈なのに、小学校の運動会で出会い、次の日、車ですれ違いに出会い、その次の日には今回の様に病院で出会い、まさかの3日連続・・・要所要所で神様がひきよせて下さっているんだろうなぁと、また40年前の事がこうして今もつながっている・・・教会の理を通して、全然知らなかった私にまでつながっていることに内心驚いた訳であります。全ての出来事には意味がある、理があるんだなぁと感じたのであります。

このよふはりいで せめたるせかいなり
なにかよろづを歌のりでせめ(1-21)

とありますように、この世は理ぜめの世界と言われます。これは、この世すべては、元の理を根源とする天の理の法則で成立しているのであります。堅苦しいように聞こえますが、何事も原因があって結果がある、平たく言いますと良い心遣いをしていると良いことが起こって来るというような法則ですべて成り立って(支配されて)おり、一つも無駄な事はないのであります。元の理といいますのはすなわち、世界と人類の創造神話であります。親神様は混沌とした泥海の世界で「人間が陽気ぐらしをするのを見て共に楽しみたい」と思し召しされて、非常な苦心に苦心を重ねて人間をつくられました。
人間が何のために生きるのかというと陽気ぐらしをする為なのであります。天理教の教えというのは、助かる(救われる)ためには、何かしないといけないというのではなく、人にはそれぞれいろいろありますが、御守護の凝縮した、かしものの身体をお与えていただき生かされていること自体がすでに、救われている(満たされている)、ちょうどいい状態であって、後は、思し召しの通り喜んで楽しく陽気に生きる事が神様の望みなのであります。

 なぜ不幸がうまれるのか、不幸の原因は一つに心のほこりがあります。ちょっとのほこりではなく、払わずに放置した積み重なったほこりが、心の汚れとなり、病や不幸の原因となります。また、日々にほこりはどうしても積もっていきます。それが普通の事でありますが、ほこりには払う方法があります。それが、日々また月次祭のおつとめであったり信仰であります。信仰というのは、人間の勝手気ままな思いを離れて一切を神に預けてくらす(神にもたれる)、心を神様の思いに沿わせる。そうした心の状態が、心が澄んだ状態であります。心が澄むと陽気に楽しく暮らすことができるのであります。
ほこりの反対のことばに「たんのう」があります。たんのうとは我慢でもなんでもなくて「ちょうどいい」と思う心であります。すでにいっぱいの守護を頂いていることに気づき(信仰の内面化)日々を通る、その喜びを感謝にかえてひのきしんや人だすけにいそしむことが大切なのであります。
また、歌のりでせめといわれますように、天の理の法則が一つに、みかぐらうた(すわりづとめ〜てをどり)に込められています。歌を理解するまた、みかぐらうたを唱和し一生懸命心合わせて「よふきづとめ」と言われるように陽気につとめることに、それぞれがたすかる元があるのであります。だからこのおつとめと言うのはとても重要で、教理がわかる事よりもおつとめができる事というのはすごい事であると思うのであります。
今月も日々に嬉しいと思えることに気づき通らせて頂きたいと思います。


元の理

 この10月26日は天理教で重要な立教の日であり、人間元はじまりのいんねんの日なのであります。

「我は元の神、実の神である。この屋敷にいんねんあり。このたび、世界一れつをたすける為に天降った。みきを神のやしろに貰い受けたい」

これは親神天理王命が、私たち人間に対して発せられた最初のお言葉で、立教の宣言といわれている有名なフレーズであります。この御告げの3日後の天保9年10月26日、天理教は開かれました。これは、ようきぐらしを見て共に楽しみたいと思し召しされ、人間世界をお初めになった、元初まりの約束に基づくのであります。元の理(創造神話)にありますように、夫婦の雛型をこしらえようと、うをとみを引き寄せ、最初に産みおろす子数の年限が経ったあかつきに、神として拝をさせるとの約束のもと、承知させて貰い受けられた、その最初の子数というのは九億九万九千九百九十九でありますので、今から900100178年前の事であります。これは本当かと思うかもしれません、証拠は・・・実際、科学的に見ても、多細胞生物という複数の細胞からなる生き物らしきものが生まれてきたのがこの10億年前ごろであるようです、最初の小さな生き物は人間をはじめ色々な生物の祖先であろうと言われています。その小さな生き物は魚のような、へびのような生物のであり、元の理のうおとみと表現されることに一致するのであります。このように今でこそ解明される事柄を、まだ世界とも交わりの少なかった江戸時代の日本でリアルに思し召し下さったのであります。当時の日本人では想像もできない事柄であると思います。アフリカが最初の人間のふるさとといわれますが八千八度の生まれ変わりの中、色々なものに生まれ変わり経験し最後にめざるが残ったのがアフリカの位置でありましたでしょうし、宿仕込みの元の場所はおぢばであるのです。元の理の根源はようきぐらしをみて楽しみたい、人々が陽気に助け合ってくらす世の中であるわけです。
近ほど、吉本さんの息子さん夫婦が別席を運び中であります。實二さんが出直されてから、別席へ運ばれる中で、家の方にもちょくちょく様子を見に帰ってこられる息子さんの姿を見させていただき、私の母親は身上でありますけれども大事にしなければという風に今一度感じるものがあります。元はと言えば私は信仰2代目で一般家庭の中、母からにおいがかかり今の私があるのであります。吉本さんのところは布教所でありますが、實二さんと笑子さんの姿が息子さん夫婦に引き継がれていると思うのであります。今の私の信仰があるのも、母のこれまでの信仰のお陰であると、ご先祖や親の徳のお陰であると今なら考えることができるのであります。
においがけと言いますと信仰が伝わっていく縦の伝道が重要であります、胸から胸へのにおいがけというのは、やはり全く知らない他人の家を周る戸別訪問を丁寧にする事も大切ではありますが、まずは親子、親戚、友達、職場など、自分が関わっている集団の中で、身近な人に、においがかかる、そこからまた、その人たちの身近な人へと・・・口コミのようなもので広がることが自然でベストであると思います。現代では先人の先生方のおかげで、天理教の認知度はかなりあると思われます。昔ですとこの認知度を上げることがまず必要だったわけですが、これからの現代では、もう一歩進んで、宗教の何だか分からないところからくる不信感をも吹き飛ぶ信頼を得て、この道は間違いないという、教えの考え方・実践を広く知ってもらう必要があると考えられます。
先日、詰所でひのきしんがあった折、勝部さんに声をかけて一緒に行くことがありました。ひのきしんも、においがけになります、非常に一生懸命つとめて下さり、私や夫婦で行くのとはまた違い、共々に喜ばしていただき、さわやかな気持ちにならせて頂きました。そういう誠の姿の人が増えてくれたこと、私がこの教会を担任することになって教会の為にと一生懸命色々つとめて下さる方がでてきた事に内心嬉しかったのであります。
教会をしていると何か外に目を向けがちで見失うことも多いのではないかと思うのであります。
何にせよ、助け合いというのは、人の心に寄り添う事から始まるもので、元の理にあります、八千八度の生まれ変わりとは、本当の意味でいろいろな気持ちがわかるようになるプロセスだと思っています。人の気持ちがわかるには同じ経験をしていなければ、とうてい分かるものではない、がんの人の気持ちというのはやはり同じ辛さを味わったひとにしかわかりえない。がんの親であったり、子供のことであったり、例えば、障害の持つ子供がいる親が何か公の大勢人のいる場面に置かれたときに思う気持ちというのはかなり特殊なものがあると思います。そういう意味で、お道の人は、出来るだけ自分の固定観念・価値観を置いて、わかろうとすることが大事なわけであります。自分の固定観念、こういう場合はこういう気持ちであろう、というのは勘違いや誤解を生みやすいものであります。その都度話を聞きながら自分の固定観念を修正しなければなりません。謙虚さとは素直さとは相手を思う柔軟な心のありようであると考えられるのであります。
北播磨分教会は、ようきぐらしという目的のために神様が縁ある人々を引き寄せて下さった講であります。講とは古くからある言葉でありますが、同じ信仰をもつ人の集まりで結社の意味と、もう一つの意味では相互扶助つまりは助け合いの団体であります。それは会長がというのではなく、会長を中心としたみんなそれぞれが互い立て合い助け合う使命を神様から頂いた者の集まりであります。日本の皆保険制度というのは、講の精神であります。年金制度も、元々助け合いの講でお道の精神が入っているようなものであります。当教会は天理教が元とした互いに寄り添い合えるような用木の集まりに進んでいきたいと思っています。今月もよろしくお願いします。


今を生きる

いつもかぐらやてをどりや
すゑではめずらしたすけする(六下り目.五)

とのようなむつかしくなるやまいでも
つとめ一ぢよでみなたすかるで(おふでさき十.二〇)

 おつとめは天理教における最も大切な祭儀で、たすけ一条の道の根本の手立てであります。また、教会本部と当教会を含め各地の教会は、「息一つのもの」と教えられるように、ぢばの理を戴き、本部を中心として、教会が四方八方に伸び広がるというところに、世界たすけの御業は進められていきます。ですので、この教会で、月次祭をつとめるというのは、御本部でのおつとめと変わりのない「息一つ」の尊いたすかる手立てであると教えていただきます。何がたすかるかと申しますと、人それぞれ求道する心・気づきの中ににお見せいただきます。目には見えない事ですのでよくわからない部分であるかもしれません。しかしながら、感じとっていただく中に、物事というのは目に見えている部分というのは氷山の一角であり、目に見えない八割の部分に気づく事こそ重要であるのだと考えるのであります。最近思わせて頂くのは、何でもそうでありますが、仕事一つを振り返っても、自分の能力や技術、知識という目に見えた事柄よりも、職場での人間関係というような、形にはできない人と人との繋がりが大切であると考えられます。何も仕事に限らず、家庭・学校・地域といった日常生活全てに同じことが言えるのであります。今、非常に多い事ですが、そうした人間関係次第で病気になる事が実際に多いわけであります。
今のように文明が発達した現代では、とても生活が豊かになり、そういう面では物や医療といった目に見えた環境で困ることは少なくなっていると思われます。しかしながら、不幸だと思っている人というのは、減っていないと言えると思います。
人間は何のために生きているのかと申しますと、やはり元はじまりにありますように、「ようきぐらし」をするために生まれてきたのであります。ほうねんとは、生かされている喜びに気づき、互いに立て合い助け合い陽気に生きることであります。何もお金持ちになる、発展する為に生きているのではなく「ようきぐらし」すなわち幸せになるために生きているという事になります。
幸せにはたんのうの心をおさめることが近道であると教えられます。たんのうとは今に満足することであります。こういう事柄というのは色々な宗教や偉人、民族信仰などでも同じように教えられます。それというのは、これはなにも難しいことではなくて天の常識であるから、みんな同じところにたどり着くのであります。
 目に見えるりんごを幸せに例え、幸せとの関係を表した話があります。皆に10個のりんごが平等に与えられたとします。Aは本当は100個のリンゴが欲しいと思っています。Aの幸せは0.1になります。Bは10個でちょうどいい思っています。Bの幸せは1になります。Cは1個あれば十分と思っています。Cの幸せは10になります。そうすると同じ10個のリンゴを与えられていても、AとCでは100倍の幸せに差がある事になります。
不幸とは、また貧しいというのは、少ししか持っていないのではなく、かぎりなく多くを欲しがり、満足しないことであると言われるのであります。お道で言うならば、たんのうは満足する事であり、その反対は不足であります。神様から命という、この体を平等に与えられ、そして「かして」くださっているのであります。ようきぐらしの為に使わせて頂くのが報恩の道だという事になるのであります。私達、道の信仰者は、生かされている喜びに気づき、今あたわっているものの中に、喜びを見出だすという幸せの姿へ自然と歩みよっているはずだと思います。

1年の余命宣告を受けて
 私の母親の話が縁あって甲賀大教会の「元の理」という定期刊行物287号に、布教エピソードとして載る事になりましたので紹介させて頂きます。
「教祖130年祭三年千日お打ち出しの年、膠原病発見。私の症状は間質性肺炎、肺の細胞が硬くなる病気です。神様の声が聴きたくて教会長資格検定講習会を受講することにしました。その時、元の理の講義を受けとても感動致しました。膠原病の治療が始まりました。免疫抑制の為に抗がん剤の投与、途中アレルギーを起こし治療は中止、それ以来、何も薬は無し、治療も無し、おさづけ、御供さん、本部参拝と自分の出来る事をさせていただきました。又、事情教会を受けることを主人と心定めし、天理から教会のある神戸に引っ越し、教会を受ける準備をさせて頂いている中、病院も替わり色々と検査を受けていると、偶然にも膵臓がんが見つかり何も治療しなければ1年の余命宣告を受けました。思ってもみなかったことでただ驚き、まだ初期なので手術はできると言われましたが、問題が有り膠原病で肺が悪いので手術に耐えられるか、人工呼吸が外れずそのまま植物状態になるかもしれないと言われ考えました。家族とも相談し手術は受けないと決断。そんな中神様は、分かりにくい癌を早く見つけて下さって1年も猶予を与えて下さったように私には思えて嬉しかったです。短い命でも楽しく、何か自分に出来る事をさせて頂きたいと思いました。上級に連絡、お運びや奉告祭等行事が有るのに、自分ながら焦りと不安でいっぱい、その時から元の理を毎日拝読。不思議と心が落ち着いて教会のことだけ考えるようになり、自分の心の流れが変わってきました。
大教会長様、上級の会長様にはいろいろ良くして頂いて、無事にお運びも終わり、奉告祭も終わり有難いの一言です。教会はこれからが始まりです。この身上を通して神様の有難さを伝えていきたいと思います。今、宣告を受けてから1年半が過ぎようとしています。薬は無し、御供さん、おさづけ、元の理の拝読のみ、お腹の痛みも無し食事も美味しくいただけ、消化される。本当に有難い事です。神様が守っていて下さる事をとても感じられます。膵臓がんから肺に転移していると言われていますが、治療の方法が無いのですから神様にもたれて通るしかありません。癌をやっつけようなんてとんでもないことです。癌には勝てません。私は癌と共に共存です。癌も私の身体の一部です。反撃すれば、きっと反撃すると思います。けんかを売らなければいい。癌をいたわり、穏やかな心で通れば、進行はゆっくりになると思います。1年半を振り返って神様の御計らいを本当に有難いと思わせていただきます。大きな身上が有りながらも明るく通らせて頂いて心が助かっている事が本当の陽気ぐらしです。医療ばかりに頼りがちな今の時代、神様の御守護に気づかぬことがいっぱい。私もそうだったかもしれない。神様を信じ、感謝し、助け合って暮らせる事がどれ程有難いことか、信仰していて良かった。信仰していなかったら、パニックになったり、心はぼろぼろに、とてもひどい結果になっていたと思います。親神様、教祖本当にありがとうございます。
 身上を頂いてもう一つ教えて頂いた事は、成ってくる理を受け止めること、神様の方向に心をしっかりつなぐこと、とても心が明るくなります。
 私も後、どの位生きられるか分かりません。少しでも神様の御用に使って頂けたら有難いと心から思っています。もう一つ私にとって嬉しいことがあります。2年前にひょんなことから息子が教会を受ける事になり、若いながらも一生懸命通っている姿を見て嬉しい限りです。親孝行をしてくれました。今はおぢばに帰り、教祖にお会いするのが楽しみです。ありがとうございました。」以上本文であります。
 教祖に重い病をたすけていただいた先人が「この御恩は、どうして返させて頂けましょうか」と尋ねたところ、教祖は「人を救けるのやで」と仰せられ、「どうしたら、人さんが救かりますか」と重ねての問いに「あんたの救かったことを、人さんに真剣に話させて頂くのやで」と仰せられたといいます。
大きな身上の中を通っている話は、同じような身上を抱える人にとって、勇気づけ、励まし、神様を通して、心の痛みを和らげる「おたすけ」になるのであると考えるのであります。難儀というのは、悪い事ばかりではなくて、通った道が話の台となり、人の気持ちに寄り添える元となるのであります。心を硬くするのではなく、成ってくる理が天の理といいますが、起こってくる今という瞬間に柔軟に道を求める和かい心が鍵であると感じさせていただきます。信仰という事は、他人にどうこう言われてするのではなく、個人個人が自ずと求め、気づき、そして心に治めていくものであります。


小さな喜び、大きな未来。

「さあさあ、結構や、結構や、たんのうせよ、たんのうせよ。後々は結構なことやで」
信心していて何故、悪い(と感じる)ことが起こって来るのかと思うことがあるわけでありますが、たんのうせよたんのうせよと仰せになっています。
日々に喜ばせて通らせて頂く中に、「たんのう」という元々の原義は「足りている」すなわち満足したという心の状態を指すということであります。
 私たちは普段、お金が欲しい、出世したい、美味しいものが食べたい、旅行に行きたいなど様々な欲望を抱えながら生きています。そうした欲望は、普通の生活の上では、力強く生きていくための原動力にもなりますが、一たび、欲望が満たされないと、心の中に不満や苦しみ、悩みが生まれるのであります。苦しみは言い換えれば「不足」の事であり、満足である「たんのう」の反対であります。これらはすべて心の事情であるわけで、叶えたい希望や欲望と現実の差が不足であり、その差が大きければ大きいほど、大きな苦しみになるわけであります。
 ところが、病気になったり歳をとったりして、身体が思うように動かせなくなったりすると、心の事情は違ってきます。それまで、おいしいものが食べたいと思っていた人が、口から食べられなくなったとしたら、もう一度自分の口で食事をしたいと願うと思います。旅行に行きたいと思っていた人が、一歩も歩けなくなってしまったら、もう一度、自分の足でトイレに行きたいと願うようになると思います。このように、当たり前の日常を望むようになるのであります。地震をはじめとした災害に遭遇したり、自分や家族が病気やケガをした時、人生最後かもしれないと意識した時、人はいやおうなく、非日常に連れていかれ、それまでの日常を振り返ることになります。そしてようやく、自分が多くのものを手にしていてどれだけありがたかったという事に気づき感謝するようになるのであります。非日常に連れていかれなくても、常日頃から感謝の心で過ごせばよいのですが、そう簡単なことではありません。だから節目というものがあります。
たんたんと過ぎていく日常と、日常のありがたさを振り返る機会を与えてくれる節目である非日常というのは、「成ってくるのが天の理」と仰せの様にどちらも、大切なものであると考えられるのであります。何事も、平凡な日々の生活に勝るものはないのであります。
たった一つの心より、どんな理も日々出る。と仰せの様に、今の小さな喜びに気づく事が、後々は結構な大きな姿へとつながっているのであると思わせていただきます。
 このように、日々の大切さ、その根底にあるのは「十全の守護」や「かしものかりもの」「八つのほこり」であったり、「たんのう」という究極の教えであります。教会は教えを広めると共に、ようきぐらしを実践する場であり、ようぼく一人一人が、所々で天理教という枠を超えて成程の人といわれるよう、通らせて頂きたいのであります。人を救ける心は真の誠一つの理と教えられますが、おたすけには、人に寄り添う事が大切であります、それには傾聴が必要なわけですが、私自身こちらにきて戸惑いながらもつとめさせて頂いて、今までとは違う形で多くの人と出会わせて頂く中に、目には見えない人と人との繋がりや信頼関係の在り方が心の健康を左右すると感じさせていただきながら、日々勉強中であります。その中にも通常、人というのは、最初は話を聞いていたのに、気づけば、逆に自分の体験談やアドバイスを話してしまっている。相手が話していないことまで勝手に自分の頭の中で想像して補い、分かったような気になってしまいがちであります。特に、相手の事を少しでも理解したと思った瞬間、相手の話を聞かなくなり、自分の頭の中で勝手にイメージを創りあげ、決めつけてしまうものであります。
私たち用木は、先入観や思い込みといったもので人の気持ちをわかったつもりになるのではなく、素直に相手を思う柔軟な心で寄り添う姿勢が必要であると思うのであります。


喜びを引き出す

 昨年、ある席での話ではありますが、食べ物の不足ばかりを言う人を目の前にしたことがありました。間近の事で、とても残念な思いをしたのであります。決して食べられないようなものが出てきたわけでもなく、どちらかというと、ごちそうであったと思います。普通であったなら嫌な思いをしたなぁと思うだけでありますが、この事のお陰で、逸話編の一つを思い出しました。これがお道のお陰であります。

どんなものでも「おいしい/\」と言うて食べてやらにゃならん。

「皆んなも、食べる時には、おいしい、おいしいと言うてやっておくれ。人間に、おいしいと言うて食べてもろうたら、喜ばれた理で、今度は出世して、生まれ替わる度に、人間の方へ近うなって来るのやで。」

 おいしいという言葉は、教祖が仰せの様に、喜ぶ理であります。よく、感謝しなさいと言われますが、漠然としていて中々喜びにはつなげられない。何もかもに「感謝、感謝」というのも、それはそれで息苦しいようにも思います。喜ぶ事が伴ってはじめて感謝になる、おいしいというのはそういう意味で、喜ぶことと感謝することの二つを備えた魔法の言葉であると思います。料理を作ってくれた人、その素材に対して、また料理を運んでくれた人、その料理に関わる人すべてにうれしいと表現する、喜ぶという事であります。ですので、おいしく食べることができる口や消化管があるということも含めて、御守護に感謝しながら、おいしいおいしいと言って食べる用に心がけたいと考えさせていただきました。

 今年は丁酉(ひのととり)年であります。酉は、果実が極限まで熟した状態、つまり一番おいしい状態を表しているとされます。そういう事から、物事が頂点まで極まった状態という縁起の良いものであります。また、干支にも方角がありまして、酉は西の方角であります。西といえば、元の理にありますように、「くろぐつな」が引き寄せられた、をふとのべのみことの方角であります。「をふとのべのみこと」は十全の守護では、出産の時、親の胎内から子を引き出す世話、世界では引き出し一切の守護の理であります。人間のお産をはじめ、世界ではあらゆるものの出生、発芽、生育、また、技術・技量を司って下さいます。体力、知力を引き出しのばして下さる。社会で身を立て、出世させて下さる。世界で万物が種から芽をふく力を与えて下さるのも、これ皆、「をふとのべのみこと」のご守護と教えられます。そんな今年は 「をふとのべのみこと」のご守護にかなうよう、物の値打ち、人の値打ちを引き出す心配り、つまりは物については結構という喜びの理を味わうこと、人については人をほめ、人を立て、人を育てる、また自分自身の喜びを引き出す心で通らせていただきたいと考えさせていただきます。


ちょうどいい

神というて、どこに神がいると思うやろ。この身の内離れて神はなし。

 自然に成ってくること、自然に与えられることが無理が無くて一番いいことであるというふうに聞かして頂く中に、いい事も悪い事も全てその人に見合った、つりあったことしか成ってこない、そしてまた自然になってくることは神様のお与えであります。
人間というのは、何事もちょうどいいようになっていて、それは大変結構な事であります。体温や血圧をはじめ身体はちょうどいいようになっています。身体ばかりでなく何事もちょうどいいように都合がいいように、お道でも聞かせて頂いておりますように買いたいものは売りに来て、売りたいものは買いに来るというような順序を頂くことが何事も結構であると教えていただきます。何事もおさめるようにするのではなく、内々からおさまっていく順序を作らせて頂くということが必要なのであります。身の内でもそうですが、熱がおさまらない、血圧がおさまらない、病気すべてがそうでありますが、病院でお医者さんは一生懸命治療という手助けをしてくれます。薬も使い医学という人間の智恵を働かしておさめようとするわけでありますが、そういった治療もその人が持つ内からおさまっていくものがないとどうしようもないのであります。肺炎になったとします。抗生物質という肺の炎症の原因となる菌をやっつける薬を使ったとしても、良くなる人が大半だけれども、どんなに強い薬を使ってもおさまらない人もいるのであります。これは薬が働いていないのではなくて、薬も体の内々からの治癒力と合わせないと最大限の効果が発揮できないのであります。
なにか病気になってお医者さん一つ当てるのも同じで何か手術しなければならない時、とても上手なお医者さんに当たって、そしてまた、手術の時に調子が良いという巡り合わせになるというような、助かるという順序を頂けるという事が運命であると思います。その順序を喜べる、結構やなぁ運がよかったなぁというように、このような順序を頂く、順序一つが天の理と云われますように、この順序を頂くという事は先々へ廻って神様が順序をつけていって下さるということになるのであります、それには日々に神様に順序をつけて頂けるだけの、私達が神様にそれだけのものをお供えさせて頂く事が必要になってくるのであります。神様に喜んで頂ける事がお供えですので、その神様によろこんで頂く事と言いますと人間の日々の心遣いであると聞かしていただきます。
夕づとめで拝読させてい頂いておりますが、神様の嫌いなものは、八つのほこりであります。おしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまん、うそとついしょであります。陽気ぐらしとは反対、マイナスの心遣いであります。
 陽気ぐらしには、人間は日々明るく通らせて頂かなければなりません。暗くなるという事は、くれくれ、何か私にこうして下さい、ああして下さいと「くれくれ」というと暗くなります。しゃれのような表現ですが、太陽がくれてゆきますから暗くなります。ああしてくれ、こうしてくれと言われそれが叶わないようなら、それがみんな不足となります。そうではなくて、人様にこうしてくれではなくて、こうさせてもらいますと与えていく事によって本当の自分の喜びが湧いてくる、助け一条の喜びとなるのであります。自分の心を満たすのは物やお金ではなくて、些細な事でも自分のした事が、人に喜んで頂いたという自分の心のありようが、満たされていく心の支えになっていくのだと思うのであります。
 お道の上で一生懸命人様のために、教会のためにというようにさせて頂く中に、ただやればいいと言う事になりますと、これは神様に受け取ってもらえないと言われます。させて頂くという中には争うような心ではなく、低い心である必要があります。おつとめにしても私を含めてこうして月次祭に自分の時間を神様にお供えさせて頂いているという事が大切であると思います。
この道は拝み信仰であるとは教えて頂いておりません。拝んで病気が治る、物事がおさまるのではなくて、朝夕のおつとめをはじめ、月次祭もおつとめと言いますように、勤めさせて頂く、又ひのきしんやお助けにといろいろと神様の御用をつとめさせて頂く中に、神様と自分が合わさった時、事が成って来るというものであります。

先月に詰所ひのきしんがありました。炊事にトイレ掃除にと色々つとめて頂いた方ありがとうございました。今回それぞれの想いの中よろこんでつとめて頂きまして本当にありがたかったとみんなが助かったという風に思います。
今回私は、26日当日の朝に参ったわけでございますが、行きの車中、大黒の会長様と信者さん、宝塚で勝部さんが乗って来るという状況で、宝塚で勝部さんが乗ってきたときにコーヒーを4つマクドナルドで買ってきて下さって車中で頂いた事がありました。それも缶コーヒーではなく、運ぶのに手がかかるコーヒーでした。そしてまた大黒の会長様が、おいしいおいしいと言うて飲んでおられ、みんなで美味しくいただいたという何気ない風景が、普通そうで中々ないなぁと、「些細な気遣い合い」がとても嬉しかったわけであります。
「徳というものはその人の陰の力である」と言われます。表に出ている力よりもっと大きなものであると思います。「おかげ」の力のことであります。
教祖は常々伊蔵先生に次のようにおっしゃったという話があります。飯降伊蔵先生はご承知かと思いますが、教祖が現身を隠された後、神の意志によって、教祖に代わって、親神様のお言葉を取り次がれた本席様であります。
「伊蔵さん、この道は陰徳を積みなされや。人の見ている目先でどのように働いても、勉強しても、陰で手を抜いたり、人の悪口を言うていては、神様のお受け取りはありませんで。何でも人様に礼を受けるようなことでは、それでその徳が勘定済みになるのやで。」
このお諭しを受けて、伊蔵先生は、それ以後、壊れた橋や足もとの悪い道を人知れず直して通られたそうです。
人の見ている目先ではないところで働くというと、人の見ていないところで掃除をしたり、そういう事を思い浮かべてしまいますが、それよりももっと些細な事が本当は重要なのだと思います。だから日々の心の使い方で陰にほこりがつくのが一番怖い、それをおつとめをつとめて払うのであります。
この陰徳のお話から関係した続きがあります。
「人間と云ふものはこの世で住ましてもらふには何からでも陰徳をつまして貰はねばならん。徳はいただけん。そこで人間普通のことをするのはあたりまへや。陰徳は、些細な事や、かうすれば後のためになる、人のためになる。この些細な事に気をつければ陰徳はつまれ、神様は喜んで下さるのや。人に云はれてするのは陰徳ではない。かうすればくさらぬ、いたまぬと云う心が大事や、粗末にしては天の理にかなはん。」
 このように、陰徳をつむという事は日常のほんの些細な事、微差だということだと思います。言葉一つ「こうすれば、こう言えば後のためになる、人のためになる」という心を神様が喜んで下さる。「人にいわれてするのではなく」、常に「こうすればくさらぬ、いたまぬ」と心を使う事が大切であると教えて下さっています。人様に礼を言われたら徳が勘定済になると教祖がお話くださっていますが、些細な心遣いから人が喜ぶ、感動を受ける事は天の勘定になると思います。
徳は陰にあり、人間はかげと共に歩き、かげはどこまでもその人について働く。陰に徳があるのか、不足があるのかでは人生大きく変わると思います。
そういう事もあり、今年の春季大祭は色々と教えて頂きまして、私自身大きな出発となった事、教祖殿で教祖に御礼を申し上げました。今月もよろしくお願いいたします。ありがとうございました。


信仰とは

自分の内側に気づく
「かしものかりもの」という教え
 この身体を含めすべては親神様からの「かしもの」で、私達から見ると「かりもの」であって、世界は結構に、ちょうどいいようにできている。そして心だけが唯一自分のものであります、ですがその心というものは、とても変わりやすく不安定なもので、心にはどうしても八つのほこりというものが積もるということを意識し、それを払いながら、心を澄ますという心の内側での作業の中に、喜びや気づきを見いだすという事が信仰なのだと思います。さらには、この喜びの発露が人をたすける行いになるのであります。

わかるようむねのうちよりしあんせよ
 人たすけたらわがみたすかる 3.47

 天理教の信仰というのは人をたすける事を一番大切にしています。神様から教えて頂く事を守って人をたすけることによってわが身が助かるんだということが根本の教えであります。
天理教になったら苦労しなければならないと考えている人が多いのでありますが、それは難儀の取り違えをしているわけで、教祖のひな形のように難儀して通るのが良いのではなくて、教祖は難儀の底に落ちて、谷底から道を付けられた、すなわちだれでも、どういう境遇の人でも、どんな立場の人でも通れるような道を示されたのであります。どんな中でも心の使い方一つで陽気に喜んで通ることができるそいういう教えであると聞かせて頂きます。

むりにどうせといはんでな
 そこはめい/\のむねしだい

 信仰は形ではなくて、また人に言われてするのではなくて、自分自身の内側、心の中の気づきとして現れるものであります。
そして幸せというものも同じく、自分の中に見つけること、すなわちそれが内々から治まっていく順序であると言えるのであります。
逆に、自分の外に幸せを求めるときりがなく、満たされない不足状態になってしまいます。そして、最後はストレスの中で大きな不満足を抱えることになり、何をしてもおもしろくない、満たされない、腹が立ってくる。良い事無しです。ある地位や立場、そしてお金などの心の外に価値を見いだす、幸せを求めるというのは、それがなくなった時に大きな心の危機をふくんでいるのであります。

 当教会もそうでありますように、初代会長夫婦が通られた道というのも、色々と周りの人から見ると苦労も多かったという風に思われる訳でありますが、決してそうではなかったかもしれない、心の内からの喜びの中、人のため、後のためという真実で通られた姿が今この神殿であり、私達の結構な姿であると思わせて頂きます。日常に喜びを見いだしてこそ道であり、喜びなくして道は続かないのであります。


大恩にきづく

大恩にきづく(2017.4)
 親神天理王命は、ようきぐらしを見て共に楽しむ為に人間世界を創られ、人間にこの不思議な身体を与えられました。与えられたと言っても、人間は神様からこの不思議な身体をかりている。こころ・たましいは唯一自由であり、不思議な身体は神様が守護により動かしている。その真実を最初に人々に伝えられたのが教祖でありました。 かしものかりものという理(すなわち真実)であります。自分達が当たり前のように日常を生きているのではなく実は、神様によって生かされているという大恩に気づく、またそういう不思議な存在であるという事に気づく事がお道の上で非常に重要な事であります。

 この身体というものは本当に不思議なものです。その一つに血液を例にとりますと、さかむけなど指のちょっとしたケガでも血が出てしまう事があります。この1滴の血液には約2億個という赤血球が入っています。その赤血球は酸素を身体の隅々まで運んでいるわけですが、その機能が落ちたり、古くなったりすると、不思議な事に体のある部分に取り込まれて処理される。そして骨髄から新しい赤血球が生み出されてまた働くのであります。私達というのは普段こんなにもすごい事が身体の中で起こっているなど知る由もありません。しかし実際には体の中でこのような神秘的な現象が、今この瞬間にも起こっているわけであります。血液の例はほんのごく一部に過ぎません。科学や医学が発達し、体内でこのような事が起こっているという過程自体は解明されつつありますが、誰がどうやって動かしているのかという答えは見つかってはおりません。人体というのは知れば知るほど不思議なものでありまして、これは奇跡と思わざるおえないのであります。
 ある遺伝子学者は、遺伝子は設計図にすぎず、生命は遺伝子に支配されているのでない、それでは脳が生命を支配しているのかというと、人体は脳の指令を受けて働いているが、その脳を動かしているのは、自分の心であり、意識である。脳はテレビやラジオの受信機のようなものであり、受信機そのものが考えたり歌ったり、するものではない。心や意識を受信して脳が働いている。さらに、人体を動かしている真の創造者は、人間の意識をも超えた大自然の偉大な働き「サムシンググレート=おおいなる何か」だと言っています。それが神様の守護なのであります。

神というて、どこに神がいると思うやろ。この身の内離れて神はなし。
たった一つの心より、どんな理も日々出る

 脳の働きを制御するのは心であり、心の使い方次第で何事も成ってくるのであります。それは自我という表層の心(表にでている氷山の一角で心を制御する部分)ではなく、自己という潜在的な意識が自分の未来をつくっていくのだと思います。だからたった一つの心を変えるといっても自分でも知りえない未知の部分の心の向きを変えるという意味ですので大変難しい事なのであります。

 先日子供と話の中に、この身体は誰が動かしているかという話題の中で、神様が動かしてくれていて・・・と言うと、子供が、「そう不思議やな、心臓も自分で動かされへんし」と言ったのであります。「そうそう、よくわかる」と言いましたが、内心非常に驚いたと同時に、こうして素直に気づき取れるというのは非常に素晴らしい事であると思ったのであります。

にんげんハみなみな神のかしものや
なんとをもふてつこているやら(3.41)

にんげんハみなみな神のかしものや
神のぢうよふこれをしらんか(3.126)

めへめへのみのうちよりのかりものを
しらずにいてハなにもわからん(3.137)


 神様としてもそういう真実に気づいてもらわないとどうにもならんと考えると思います。私達に置き換えてみても、人に車を貸したとします、車ではなくても消しゴム一つでもそうですが、借りている方は、それを借りているとも思わない様子で好きなように、また自分の物のように使われたら、貸している方はどう思うか。そいういう基本的な事柄なのであります。ですからにおいがけというものは、この「自分達が当たり前のように日常を生きているのではなく実は、神様によって生かされているという」という真実を知ってもらう事が大切な事だと思います。難しい教理がわかっているようでも、この「生かされている」という事、「かしものかりもの」という基本的な気づきや実感がなければ、信仰しているとは言えないのではないでしょうか。そのような信仰の土台の上にある陽気ぐらしには、人間というのは日々明るく通らせて頂かなければなりません。やはり、お道を信仰しているなら、そうでない人より幸せでなければなりません。お道を信仰していても不幸だと思う、うまくいかないと思うなら、もう一度あらためてこの大恩というものに気づく、自分が通っている道を見つめ直すことが必要であると思います。陽気で幸せそうな人、明るく通っている人は、周りから成程と思える説得力や幸せのにおいが出てくるのだと考えられます。
私達は、今を生きているのであって、過去にどんなに良い事があって、いくら良い事をしてきても、また過去にどんなに悪い事があったとしても、今現在が喜べないというのではどうにもならないということです。

見るもいんねん、聞くもいんねん、
添うもいんねん。皆これ世界の鏡(M21.2.15)

 ある話がありました。子供が不登校になっているお母さんがいます。どうしようか悩んでいるわけでありますが、それを聞いた人は仕事を少なくして家にいる時間をふやすべきだと考えたとします。ですが、家にいる時間を増やせと言っても聞き入れないでしょう。聞いた人にも子供がいて、子育てが終わって大きくなり成人しているとするなら、自分も子供にそういう思いをさせていなかったか、またそこからくる摂食障害といった病気になっていなかったか、そういう思いをめぐらせ、もし心当たりがあるなら、それは聞くもいんねんなわけであります。悩んでいる人を助けられるのもその人なのです。自分もそういう事が昔にあって、自分はできなかったけど、子供と一緒に過ごせる時間は大事にした方が良いと今なら分かると伝える。すぐには変わらなくても悩んでいる人の内々心に届く。その人を助けるようにと神様が与えてくださった縁というか役割なのであります。それが自分が助かる道筋でありあます。 そうやって自分しかない役割や通るべき道がある、そういう事がこの当たり前の日常に散りばめられていると思います。神様の言う通りに、導きに気づき、今できる事をつとめさせて頂きたいと考えさせていただきます。


種まき〜ようきぐらしの花を咲かせる〜

人間というものは、身はかりもの、心一つが我がもの。たった一つの心より、どんな理も日々出る。

 親神様のお話によって、人間の幸せや不幸というのは心一つ、すなわち心の使い方という種まき一つにあると教えていただきます。そもそも、ようきぐらしを見て共に楽しみたいと思し召しされた神意について、神様は「ようきぐらし」という花が咲くのを楽しみにされていると言い換える事ができると思います。この五月というのは多くの花が咲く季節であります。色々な姿の花がそれぞれにいきいきと咲き、満開になるのを見て人は癒され感動するのであります。神様も人間が幸せの種を蒔き、日々成人し、互いに助け合って生きるという心に咲く「ようきぐらし」が満開になるのを楽しみにして下されている、そのように思います。
 そしてその根源となる心の種まきについては、大恩を返すという種をまく事であります。大恩を返す種、すなわち御恩報じというのは、何も大きな事をするというのではなく心の内側の気づきの事であります。自分達が当たり前のように日常を生きているのではなく、生かされている不思議な存在であるという事に気づく、そしてそれらに感謝するという事が大恩を返す種であり、究極の御恩報じなのであります。

このたびいちれつに 
ようこそたねをまきにきた(7.10)

 皆が大恩に気づくという種を蒔きに来ることをお待ち望み下さっています。
 そう言いながらも、言葉で言うのは簡単ですので少し聞くと理解した気にはなりますが、自分の心の本体がそう感じる、気づくというのは相当難しいことだと思います。神様はその一点をまず心に修めてほしいと、神様に大恩を返す種をささげたなら一粒万倍にして受け取るという事であります。この道は、困ったことは神頼みというような御利益信仰ではなく、すでに与えられている大恩に気づくという事が始まりであり、幸不幸の最大の分かれ道であると考えられます。
人間同士にしても同じであります、ああしてほしい、こうしてほしいとお願いばかりされるとその内に嫌になってしましますが、ちょっとした事でもありがとうと心から感謝されると、とても嬉しいものです。何にしても、当たり前になってしまうというのは、こうしてほしいから、こうしてくれないという不足となり、命の源泉を枯らしてしまう、神様からも人からも敬遠されてしまうのであります。互い立て合い助け合いと言いますように与え与えられ、補い合って通らせて頂きたいと思います。

よくをわすれてひのきしん
これがだいいちこえとなる(11.4)

 私達は何でも、物事の損得や目先の事などを考え頭がいっぱいであります。日々の大恩に気づき感謝することは、神様に大恩を返す種まきであります。神様の畑にまいた種は、肥を置かずにつくりとりと言いますように、肥料がなくても育ち、「やしきのつちをほりとりて ところかへるばかりやで(11.8)」とありますように苗代となったものを、蒔いた私たち本人の心の畑にそれぞれ植えかえてくださるのであります。そこから先、育てようとする私達の心の畑には肥料が必要なのであります。そこで、ひのきしんは心の肥と教えられたのであります。日々の感謝を身体をもって表す自発的な見返りを求めない行いは、皆でする奉仕作業や、人の為にお祈りする、人を喜ばす、思いやり、機嫌よくしているだけでも、感謝の心から、喜び勇んで事に当たるならば、それは全てひのきしんとなります。すなわち心のこやし(栄養)となるのであります。今の時代、身体の栄養が切れる事はまずありませんが、心のこやしが切れるという事はよくある事なのです。身体と同じように心にこやしが切れると、そのしるしがいろいろな病気となって現れてくるのであります。難しいことを考えなくても、実践したひのきしんを通して気づくことを大切にする、その積み重ねが重要だと考えます。
 私たちは「ようきぐらし」という作物を育てる為に、一人一人平等に心の畑を与えられております。幸せの種をまいて、次から次へと心のほこりが原因で生えてくる雑草を抜いて、肥をかけて育んでいくのであります。心の種まきというのは、これをしなければならないというのは、めいめいの気づきである為、非常に漠然としております
が、難しいことは置いておいて、おつとめをつとめて大恩を返す種を蒔き、ひのきしんをさせていただいて心に肥やしをかけるという実践がよいのではないでしょうか。


ほしい

 大恩に気づくことが心の種まきであると申しました。具体的に大恩に気づく事というのはどういうものでしょうか。一言で言いますと、この毎日というのは当たり前に過ぎていくのではなく、いろいろな不思議な御守護が重なって成り立っている。生きている事は不思議であり、そうして生かされている事に気づき感謝する事であります。
先日ある方が参拝に来られました。病院を受診中に何かの拍子に転倒され、頭や腰を強打されたのであります。その後すぐに頭や腰のCTといった検査をしたところ、幸いにも異常は見つかりませんでした。転倒した時の痛みは残っていますが、大難は小難に守っていただいたと御礼に参られたわけであります。
起こってしまった事を悔やみ、不足に変えてしまう事はよくある事ですが、起こってしまった事よりも大難は小難に守って頂いたと気づけるという事は素晴らしいことであると思います。今の時代は良くも悪くも医学が発達し、検査によって身体については大体のことがわかるようになっています。だから何かにつけて調子が悪いと隅々まで身体を調べて治療し、完全に治っていく事が当たり前のようになっています。そうは言っても手術したら跡が痛むかもしれない、またお薬にも副作用があります。医療にもそういった副作用という代償があるわけで、ちょっとした事でも完全に治してほしいというのが人間心でありますが、これで結構ありがたいと思える心が大切なわけであります。
 ああしてほしい、こうしてほしいというのはほんの些細な事であります。私もそうですが、子供が言う事聞かなかったりすると無性に腹が立ったりする事があります、他の子にはそんなことを思わないにしても、わが子となると違うわけです。これは、わが子ならわかってほしい、ああしてほしい、こうしてほしいという心の現れであるというふうに思います。

陰徳は、些細な事や、かうすれば後のためになる、人のためになる。この些細な事に気をつければ陰徳はつまれ、神様は喜んで下さる。かうすればくさらぬ、いたまぬと云う心が大事や、粗末にしては天の理にかなはん。

物だけでなく、人も粗末にしてはならないと仰せになっていると思います。こうすれば後のためになる、人のためになると、相手の立場に立って考える。人と言うのは自分だけが忙しいと思ってしまうと心をなくしてしまい、相手の立場では考えられなくなり、「ああしてほしい」から「こうしてくれない」へと、ちょっとの「ほこり」から不足となり、潤いがなくなっていきます。
当たり前というのは、「○○だから当たり前」というように前提を自分の中に作ってしまう所からはじまります。これは親子など身近な人では特に気を付けなければならない事であります。
この前提という足かせを外しやわらかい心にならないと、「たんのう」はできないのであります。自分だけが忙しい、不幸であるという事はありえないことです。身近な日々を見つめ直したんのうの心を治めて通らせていただけたら素晴らしいと思います。


母からの宝物

 先日、(平成29年)6月21日に私の母が出直しいたしました。同月14日に入院し、わずか1週間という間ではありましたが、私達にとって濃密な時間を過ごすことができました。その間の事また弔辞から少しお話したいと思います。
母の人生は波乱万丈でした。その生きた道はこの天理教と共にありました。
病院の主治医の先生が「津山さんは病気の事で悲観や絶望もせずいつも、ありがたいありがたいと気丈におられました。これは天理教の教えが本当に素晴らしいものなのだからでしょうか?」そう言われました。そんな母は、最後まで「今、病気に対して不安というか、そういうものは全然ないのよね。それがありがたい。」と言いました。昔から「この道は間違いのない道やから。」とも言っておりました。物分かりの悪い私でしたから、いろいろと反発したこともありました。でもようやくわかった気がします。 私がこうして最高の相手と出会い結婚させて頂いたのも、いつもあっこちゃんが大好きと言うお母さんからもらった神様からのご縁でした。6月19日、私は32年前、事情により離れ離れになったきりで、5年前に何もないところからやっとの想いで探した兄に意を決して連絡をしました。そうしたら、その日、お兄ちゃんと奥さんと、娘さんが会いに来てくれました。  
32年という長い間、母の中に重くのしかかっていた自責の念。お兄ちゃんとお母さんが抱き合う姿を目の前に、母親としての計り知れない想いと心からの幸せがあふれていました。「神様は本当にすごい、起こるはずのないことが起こってくる。」そう言った母は本当に輝いていました。今この瞬間(とき)を生きていました。
「お父さんは不器用だけど真実の人やからなぁ。なんでお父さん選んだかと言うたら、和由を大事にしてくれる、もし のりくんがきても受け入れてくれると思ったから、普通の人ではあかんの。」最後の日に本当にその通りになりました。私は嬉しかったと共に、いろいろあったけど本当にありがとうございましたと、心から言う事ができました。母がどんな中でも心ひとつで、ようきぐらしさせてもらったと言っていたように、私もこの道を北播磨の会長として一歩一歩通らせて頂く事に感謝致します。親が子となり、子が親となり。今度生まれ替わってきたら、私達が恩返しをさせていただきたい、そう思うのであります。
母は病気にはなりましたが、最後までこれで結構ありがたいと、本当にようきぐらしさせて頂いたと言って静かに息を引き取りました。そんな母の生きた姿というのは、私にとって大きな宝物のようなものです。母の出直しによって心に大きな穴があいてしまった。というのも事実ですが、人生にとって大きな宝物も同時に戴きました。
私たちは今を生きているのであって今をこれで結構ありがたいと満足して生きることを求められているのであります。それが「たんのう」であり、「いんねん」を納消するという意味を含め、幸せになる唯一の方法であります。
これから皆さんと共に、今を喜んで通らせていただきたいと思います。


いんねんの持ち越し

 「いんねんの持ち越し。因縁という、持ち越すところの理。一日結構に暮らしても、晩方になりて、きょうだい(兄弟姉妹)や夫婦で罪作る(口論、喧嘩ほか)という事がある。したならば明日の朝、互いに心持ちが悪くて、ものも言わんという事になる。中には一日も二日も、ものを言わん。顔を見ても睨(にら)み合いで通る事もある。この理はどこから出たか。何がさせているかと言えば、みな我が心がしているのや。心の理が残りてあるからの事や。人の一生終わりて、生まれ変わる場合にも、前生の理を持ち越すというは、この道理であるで。ゆえに、この世の事は、この世で果たすよう。残す理は、善き理を残していくよう」  諸井政一集後篇より

 心の理を残すという事で言いますと、一つに自責の念というものは相当難儀であります。あの時ああしていれば、こうしていればよかった。というようなものです。先日出直しました私の母は前にも申しましたように身上と共に、大きな自責の念を抱えておりました。その事情が、いうならば私にとっても信仰のきっかけであるいんねんと言える、そう今では考えています。母の身上はすい癌と、直接的に致命的だったのは、膠原病からの間質性肺炎でありました。膠原病というのは自己免疫疾患という自分の肺や皮膚を自らの免疫系が攻撃し肺の機能が停止する進行性の病気であります。自分で自分の身体を責めるという心と身体の理が合わさっていたようにも思えます。
しかし、病気にたんのうしてたんのうして通った結果最期には奇跡が起こったのであります。兄との再会という事だけでなく、その回りにもあった自責の念が昇華された瞬間をお見せいただきました。
これまでの一連の流れは今考えてみると、どの部分の歯車が一つ違っていてもこの結果にはなっていなかったと言えます。自責という心の理が残るということは、すなわち、いんねんの持ち越しとなり、本人だけで済まず周りにも、しこりのように広がっていく、また事情が繰り返されることになります。ですので、この世で関わった人みんなでこの世で果たすという事が大切なのだと考えられたのであります。心ひとつで、起こるはずのないことが起こってくる。信仰というものが本当に大きいと言えるのであります。私自身も陽気3月号に母が残した遺稿のように、お道の信仰のおかげで一番という親孝行させて頂きました。
(そういう心の節もあり、今年のこどもおぢばがえりにしても、ひのきしんや他の御用も、今までとは違う心境にてつとめさせて頂きたいと思う次第でございました、先月の大黒の月次祭の講話にありましたように、なんでも神様の御用と思うてさせてもらったら一粒万倍にお受け取りくださる。という言葉を胸に・・・、私が感じただけかもしれませんが子供達も例年に増してよろこんでくれたように思います。)

信仰しているのも自分
 この理はどこから出たか。何がさせているかと言えば、みな我が心がしているのや。
と教えて頂くように、全部自分次第であります。自分次第といいますと、信仰の形もそれぞれであります。月次祭には毎月かかさずつとめる人、日々のおつとめにくるひと、御供えを毎月運ぶ人、陰ながら拝んでいる人、困ったことが起こると神様と思い出してくる人、というように人それぞれなのであります。どれが良いとか悪いという事ではなく、すべては心(気持)次第であります。この自分次第というのがやっかいなくせものであって、それによって幸せにも不幸にもなるわけです。何か困ったときだけくる人は、困った時だけきているから、また困ったことが起こってくる。私がすごいなと思うのは、役員の大鷲さんは、お蕎麦屋さんをされ忙しい中、毎月六日は定休日にして、朝早くから実動されています。また、お金があるから御供えするというのではなく、お金に困りたくないからお金を御供えするのだそうです。時間があるから(休みだから)つとめるのではなく、時間をつくって(休んで)つとめる。たすかりたいからつとめる・拝むのではなく、つとめるからたすかる。人をたすけたらたすかる。すべては同じ道筋であるわけです。飲食業は厳しいという中40年余繁盛店をきりもりされてお客さんからも喜ばれている姿をお見せくださっています。ありがとうからひのきしん、ありがとうから助け合いと言いますように、感謝の気持ちからひのきしんに、おつとめに、御供えさせて頂くのと、神様にこうしてほしいというお願いからひのきしんに、おつとめに、御供えさせて頂くのとでは、一粒万倍と、一粒一倍くらいの差があるわけであります。

月次祭
 「月々26日として月次祭もあれば大祭もある。26日という月々理と理とをあらためて、事情のあったのは生涯の理。また一つ、26日というは始めた理と治まりた理は一つである。」
(明治29年2月29日)
おさしづにありますように、北播磨分教会の6日のお祭りは、御本部から理のお許しを受け、月一回御本部月次祭の理と同じように尊いおつとめであります。みかぐらうたの中には幸せになるエッセンスが含まれています。てをどりや鳴物を毎月繰り返しつとめている内に、教えが心の中に入って来る。そして運命も変わるものであると思わせて頂きます。
朝夕のおつとめも大事ですが、月次祭があっての日々でございます。逆に毎日だと大変だ義務的と思う人も、月一回気持ちよく、感謝から続けられる気持ちが一粒万倍に神様が受け取って下さると思うのであります。
すべては、めいめいの心次第という真実のことわりであります。


銘々の心次第

このからだは神様からのかりもので心だけが自由であります。何を思おうと自分次第、人はそれぞれ毎日いろんな思いを抱えて通っているのです。しかしその心遣いが、今の自分の全てに成ってきているのであります。
 先日ものすごく腹が立つことがありました。詳しい事は申しませんが、案外客観的に見たら大したことなくても自分自身にしたら、心がとらわれてしまい、もやもやとすっきりしない事でありました。わかってはいるけどそれを消化できないもどかしさ、それが心の難しいところであると感じます。こういう機会を与えて頂いて心の難しさを実感できるというのはありがたいことであります。
 先月の本部月次祭、神殿講話の一部に、「大恩を小恩でかえすようではならんで」というおさしづのお話がありました。小恩というのは人からよくしてもらった恩であります。人にものをもらったり、良くしてもらったら、お礼を言うのは当たり前でありますし、みんなお礼をいいます。大恩というのは神様によって生かされているという事実であります。こうして何不自由なく空気を吸って呼吸し心臓が動くということは、少し立ち止まって考えてみれば本来とても不思議な事です。しかし、当たり前すぎて気づかないのであります。日にちに頂く御守護に気づき感謝するところに信仰の姿があると思います。
何がありがたいか、それは今この瞬間全てがありがたいのです。今この瞬間全てに神様が在るのであります。この道は信じるというより、分かるか分からないかであります。「信じる」というのは、人が言うと書きます。意味の中に(人の言うことを)本当だと思うという事が含まれています。
 私達は目に見えない、あるかわからないものを信じている(本当だと思っている)のではありません。今そこに在る当たり前すぎて気づかない神様の姿、御守護、大恩を確認していくのであります。私の母が出直す直前、息苦しくか細くなった声で、「神様は本当にあるよ」と力強く私に言いました。神様は信じるのではなく、今ここに在るということ、そして起こっていることが分かるか分からないか、それがすべての真実であり、銘々の心次第であります。

心で思う通りの守護という事も諭したるは今の事。さあ心次第に直ぐと現われる。どうせこうせは言うのやないで。そこは銘々の胸次第。


神様におまかせ(2017.10.6)

けふまでわなにもしらすににんけんの
    心ばかりでしんはいをした(13-9)

 人間というのは何も知らずに自分の心ばかりで何かにつけて、先を案じ、恐れ、常に何かを心配しながら生きている。そういう人が大半であります。しかしながら、真実に気づき神にもたれるなら、不自由なきようにしてやろう、不思議なめずらしい事が起こり、何も心配することが無くなると仰せになるのであります。
この月に想いをはせる中に先人の方々の道があります。当教会の初代会長夫妻は何もないところから一代でこの立派な神殿を普請されました。これ自体が神様の仰せの通り自由自在な不思議な姿であるわけであります。普通にサラリーマンをしてどれだけ働いていてもこのような神殿を建てることはできいと思います。ではなぜそう成ったか、それは初代会長が「かしものかりものの理」について深く探求されていた事にあると考えられます。
めへ/\のみのうちよりのかりものを
しらずにいてハなにもわからん (3-137)

分かりやすいようで、実はとても奥が深い内容なのであります。身体は神様からのかりもので大切に使わせてもらわなければならない、というような事は表面的なものであります。
 「普通の人」と初代のように「不思議な御守護に守られる人」の違いはどこにあるかと言いますと。「普通の人」というのは思考の土台が神様の仰せである、「心ばかりでしんぱいをした」という恐れや不安なのであります。将来の事、お金の事、子供の事、親の事、自分の事、健康の事、数えだしたらきりがない不安に心が占領されています。というのは目に見える物事、物質的な現実が全てだと考えており、当然ああしよう、こうしようと何事もコントロールする必要があると思っています。それが叶わないと不足や悲観的な感情が沸き起こって心が澄まないのであります。
「不思議な御守護に守られる人」というのは、考え方の土台が「守護の自覚」つまり大恩に気づく事なのであります。その境地は起きてくる事、与えられている事をただただありがたいと認める、見えない世界に気づき、物事はコントロールするのではなく、何事も起きるのにまかせるという神様にもたれる心の自由さがあります。それはすなわち「たんのう」であり心が澄んだ「ようき」な状態であります。そういうところに不思議な御守護があるのであります。
実際に当教会の初代が何もないお金もないところから神様を感じ、この神殿が建つという姿は人間心では想像できない事であると思います。私自身もこの教会にきまして色々な御守護を頂いています。起きてくることは不思議な事ばかりです。「人間は生きながらにして生まれ変われる」。という言葉がありますように、初代の偉業は特別なものではなく、誰しも心次第で奇跡が起こる。それをみんなに感じてほしいというのが神様の親心であると思います。
 


自由自在

 人間というものは、身はかりもの、心一つが我がのもの。たった一つの心よりどんな理も日々出る。どんな理も受け取る中に、自由自在という理を聞き分け。(おさしづ明治22.2.14)
願い通りの守護ではなく、 心通りの守護と教えていただきます。
幸せの道というのはやはり、今この瞬間をたんのうする、つまり起こって来る事を受け入れる事であります。誰かよりもましとか、自分よりひどい状況にある人(と勝手に思う)より恵まれている、そういう人と比べてどうだではなくて、自分次第、自分がいま喜べるかのみであります。全てはちょっとした気づきであり、よろこびは外から得るのではなく、内から湧く心にあるのであります。
ようきぐらしの実践が、自分を中心とした幸せの渦を起こすのであります。 


ぜんぶありがたい

みえることみえないこと

 にんけんの心とゆうハあざのふて
 みへたる事をばかりゆうなり(3.115)

 大恩とは、自分で生きているのではなく生かされているというありがたさに気づくことであります。さらに大恩に気づき、たんのうする、今を生きる、今与えられていることにたいしてしっかり喜ぶにしても、○○だからありがたいというのではなくて、今あるぜーんぶありがたいんやということに気づく事であります。 
 いんねんの自覚というのも、今ある姿からその心の因果を省みることもひとつではあります。これはよく病気から自覚される事が多いわけで、諭されるのもそれがきっかけということはよくある事だと思います。 本来自覚というように、それは自分で気づくことであって人が言う事ではありません。それはそれで、そもそもその病気自体が悪い事なのか、それを不幸としてしまっては、たんのうできない、満足できない。意味がない。よろこべるはずがない。この世に悪い事なんてひとつもないのに。今ある姿というものは、自分の心次第の自由で成ってきている姿であります。そもそも、元のいんねにあるように、人間はようきぐらしをする為に生まれてきて、喜ぶために生きている。

もっともっととなる心
 正直とは自分に正直になること。今の自分自身すべてを受け入れる。良いも悪いも。
 先日、こんな事がありました。
 とあるご夫婦で旦那さんが入院されて、病院におさづけに行かせてもらった事がありました。はじめは病状についても突然のことで悲観的な感じでしたが、いろいろと話をするうち、身上やいろいろと受け入れられていき、夫婦互いのいたわりのような雰囲気の中に御守護があると感じることができました。そう、病気は全然悪い事ではないと改めて思ったのであります。 


楽しむ

 信仰は日常生活のなかに陽気ぐらしの実践があること。何十年してきたとかではない。今あるのみである。たすけてほしい時だけ知っているではない。思い出すのではない。常日頃、この日々において心に浮かばしてもらうことが必要になってくる。

なんぎするのもこころから
わがみうらみであるほどに

 人間というのはじぶんに不都合なことがあると人のせいにしたがる。病気がなおらなかったら医者のせい、何かのせいにして、心が晴れない。心が苦しくなる。自分ばっかり、自分なんて何もできない。そういう時は自分と向き合う大切な時間なのです。
自分の心が変われば全てかわる。大恩に気づきさえすれば全てかわる。結局は、めいめいの気づきである。そこがいわんゆえんの理ということです。言って言われてわかるものではない。教えに沿った気づきが必要なのであります。

「たんのう」は我慢ではない。今を楽しむこと。
不足というのはあってもいいが、こっちだったら楽しめるというように楽しい方向へ転換する。

自分の心が○○でなければならない。というように勝手に審判し縛るから何もたんのうできない。

病気でも楽しめるか
 医学の発達からして見つけられない病気はなくなりつつある。それが本当に良いかというのも疑問に思う医師もいるわけで。医療の立場からすると知りたいし、研究にもなる糧ともいえる。
そういう所から健康でなければならない。あたりまえ。という風潮である。一たび病気が分かれば「私は病気だから」と命には別条ない状態でも自分はあかんと不足になる。
病気でも楽しめるというと、健康でなければならないという自分の審判をゆるめる必要はある。私の母はすい癌で、肺もめちゃやばかったけど、死が迫り最後もう少し時間があるならば、今のありがたさを伝えなあかんと。この状況はとても幸せやと言っていた。
病気を治そう、病気になりたくないという上から心を変えるのではない。また治りたい為におつとめします。八つのほこりを積まないようにしますではない。それはつまり、病気が悪いことで、私は病気になりたくない・・・そうして呼んでいる。すでにいっぱい守護があるのに。今はありがたいことなのです。それの繰り返しであります。
 


こころのままに伝わる事

 天理の教えで言う最終目標は「陽気ぐらし」であって「大恩への気づき」と「たんのう」という悟りのレベルに達する事である。しかも瞑想など他を排して得るものではなく、この今という日常の中で到達する必要がある。これは、言うのは簡単でも、目には見えない事であるから伝える事は非常に難しい。むしろ自分の心を映していく必要がある。
 正直にありのままに振る舞う事の中に、目には見えない事が「こころのままに」伝わる事があるはず。心の自由という教えは、心を変えれば病気が治るとか現世利益を求めるそんな低次元の話でなく、本来前世から後世へと生まれ変わっていくという魂のもっと大きなスケールの高次元な教えであります。
 大恩にきづき、たんのうする。全ての答えは自分の心の中にあって、その自分の心の中(内面)に神様を感じる時が陽気ぐらしという神秘体験を経験するのであります。 


すべては自分の中に

 毎月読みます「たんのうの心」といいますのは、今に満足するとか我慢するとかいう事を思い込ませるものではありません。何をたんのうするのか、今おける状態、生きている・活かされている自分自身に満足するのであります。元の理にありますような人間がなぜ存在するのか、私たちは陽気ぐらしをするために生まれてきたのです。神が苦労してここまでの人間にしてきた奇跡の存在なのであります。そんなことにも気づかずにみんな不足ばっかりいって、目に見えるものばかり追い続け、人生をコントロールしようとばかりしている。その末は自分はこんなに頑張ってきたのに、働いてきたのに、苦労してきたのにって思って人生が終わってしまう。それはええから早く大事なことに気づけって親神も思っているのです。
自分の中にすべての恵みがすでにあふれるくらいある。自分の中に常に起こっている奇跡、かけがえのなさに気づくことは外に何かを求めるのではなくて自分自身であることです。それは自分勝手になるどころか満たされて他に攻撃しなくなる。人を救うことになる。人のことをごちゃごちゃいう人は自分が満たされていないから、自分の中にある神の姿に気づいていない。
全てはかしものであって心ひとつが自分のものなのです。
なんでも身の回りにあるものを自分のものだと思う。
にんげんハみなみな神のかしものや
なんとをもふてつこているやら(3.41)

にんげんハみなみな神のかしものや
神のぢうよふこれをしらんか(3.126)

めへめへのみのうちよりのかりものを
しらずにいてハなにもわからん(3.137)

なんでもそうですが、人は物を所有する事で貧しくなるといわれています。全部自分でどうにかしないといけなくなるからです。でも責任を放棄するのとは違います。家も車も人も家族も未来も人生も。かしものかりものというのは、所有する事で貧しくなることからの解放を意味します。一般的人間の常識的に考えたらアホかもしれませんが、すべては親神にゆだねるのです。
神というて、どこに神がいると思うやろ。この身の内離れて神はなし。
たった一つの心より、どんな理も日々出る
といいますように「たんのうのこころ」は自分のほこりの戒めという意味合いは表面的で「すべては自分の中にある。」というのが本当に伝えたいことです。
教えの上辺、形だけをとらえても全然楽しくない。
自分にすでに与えられた恵みを軽く見て気づかずにいるとあっというまに人生終わってしまいます。人生でいちばん大事な事をさっさと早く知って陽気ぐらしへと邁進させていただきたいと思います。
全ては自分自身の中にすでにあるのです。 


天の理に沿う

 本年も早いもので今日は今年納めの月次祭でございます。今年一年無事につとめさせて頂きました。一年間楽しくつとめさせて頂き誠にありがたい事と存じます。皆様方におかれましては今年一年、教会の御用の上に心を寄せて頂きありがとうございます。

今年も銘々いろんなことがあったかと思います。その節というかその時々でいろんな事を思うたり考えたりすると思います。
このたび教祖より御自由(ごじゅうよう)お働きの理をお聞かせ下さいまして、
『知恵も仕込み、学問も仕込み、よろづの事をだんだんと教えてきて、十のものなら九つまで教えたで。このたびはその残り一つを教えるで』
と聞かせられます。そこで九つまで教えて頂いてあるから、世上においては何も不自由、不足はない、便利で重宝で結構な世界でございます。
『たった一つ、銘々に思う事が思うようにならん。「しよう」と思う事が成らずして、「しようまい、なるまい(しないようにしよう、そうならないようにしよう)」と思う事が成ってくる。とんと銘々の思うようにばかりはいかんと言うが、これが一つの不足である。その不足を無いように、思い通り、思わく通りに叶えてやったらそれで十分やろ。
このたびは、ここの一つを教える道であるで。十の数なら一番終(しま)いの「十目の教え」。すなわち「とめの教え」や。「だめ(最後、究極)の教え」やで。
この道は、建て通さにゃならん。末代続く、限(き)りなしの道やで』
〔改訂 正文遺韻 177頁 御はなし草稿 身上かりものゝときわけ〕より

いろいろな事があっても一つそれぞれに開かれた選択肢(道)を選んで人生歩んでいきます。
その選択する道が重要なわけです。それをガイドするのが人生における信仰であるといえます。

天の理に沿う
がんというのは怖い病気だというイメージです。
がんというのはがん細胞が増える病気です。
がん細胞はそれ自体は普通の細胞とほとんどかわりません。何が違うかというと天の理(自然・すじみち・法則・秩序)を無視して増殖することにあります。生まれて死ぬという法則に反して、栄養を与えて培養すると細胞分裂をしつづける、生き続ける不老不死化した細胞。ただそれだけです。しかしながらそれが、体の中に無秩序に起こるといろいろな臓器でがん細胞から塊になっていき塊の真ん中のものには無理がでてきて栄養や酸素が足りなくなっていき、みずから壊死していく。それががんの本体であります。
最近の研究ではがん細胞を自然な元の正常細胞に戻す事ができるという研究があります。
ある意味がん細胞は度が過ぎたがんばり屋さんで、ちょっと難しい事ですが元に戻ることができる。
つまりは、天の理に沿うようにできるわけです。
私たちの心もおなじようなもので心一つでどないにもなる。
世間大体の人がみんな普通に結構に、10のうち9までの生活していて、信仰というのはあともう一つ最後の大事な一つをもって統合する、世間からいうと豊かにするプラスアルファなツール・最後の一滴のエッセンスなのです。神様からするとプラスアルファではなく必然。
それ(信仰)を薬のように正しく用いる
理とは人間の理(ものさしや考え)ではなく、天の理で、自分の中にある神にしたがう。親神とつながる事というのは信仰的な経験やおつとめを通してみずから見出す・感じる事であります。
たすかりというのは、信仰体験が言葉にならないくらい純粋経験として経験されたときです。
先日13峠越えで徒歩にておぢばがえりさせていただいて、朝から歩いて5時の本部の夕勤めにちょうど間に合って到着しました。息子があとから、本部の夕勤めにとても感動したと言いました事がまさに理屈ではなくて信仰の醍醐味であると感じたわけです。そういう事が神様とつながっている瞬間であると思います。
理屈や話では分からないことはたくさんあります。結局自分自身が感じなければ何もならない。
信仰っていうと理屈や助かる方法を人間心であれやこれやと考えちゃうものですが、その喜びを感じる気づきの道であります。難しい話を聞いて理解したつもりでいるのではなく、自らがこの毎月の月次祭のおつとめ、毎月毎月の繰り返しを通して自分が信仰の喜びを感じる親神とつながるというのが大事であります。


ありのまま感じる

 今月の26日は春季大祭であります。134年前、教祖は、世界中の人間をたすけたいとの親心から、どんな道も明るい心でお通りくださり、万人がたすかる道を教え示されましたが、なおもたすけを急ぐために、人々の成人を促すうえから、二十五年先の寿命を縮めて現身をかくされたのでした。そして、いまもなお存命のまま、世界たすけのうえにお働きくだされています。
にんけんの心とゆうハあざのふて
みへたる事をばかりゆうなり(3.115)
 教祖の目に見える御守護ばかりに目が向き、依存しがちになる人々をそうした喪失からくる不安や恐れから解放させる意味合いが込められています。“なおもたすけを急ぐため”といいますように目に見える物ばかりを信じる人間に、見えないものの本質を分かってほしいと、成人せえといって現身を隠されたのであります。

 “おやさま”は旬刻限の到来とともに“神のやしろ”となられてから、物への執着を手放すべく家財をふくむ財産を手放されました。貧に落ちきれといいますのは、なにも贅沢がだめで質素が美徳というものではなくて、そういうものへの執着が心の道の邪魔になる、ものの真実を曇らせるからであります。
“かしものかりものの理”というのは“神様からすべてはかりている”という概念が"これは自分のものだ"という執着と、それを喪失する恐れや不安から守ってくれる真実であります。
執着を手放す重要性は“恐れ・不安・不足”からの解放にあります。“恐れ”は物をもつとそれが無くなっちゃうんじゃないかという“喪失する不安が生まれ”それが不足となり欲となり“ほこり”から“心のよごれ”になっていきます。
“感じる”
信仰はあれこれ他人の信仰体験や自分の体験からから考えるのではなく“そのまま感じる”ことが重要であります。
何事も一つに執着しすぎると本質が見えなくなるのであります。
教理というものも例外ではありません。“教理的にはこういう事だからこの場合はこういう風に思わなければならない”というように執着するのではなく、いったん手放し柔軟に参考にするなどして“おつとめ”や“ておどり”を通して“かしもの”を“ありのまま感じる”ことが重要なのであります。

“大恩・天恩・神恩”を感じ今年も一年、"心どおり"おだやかにすごせるようお祈りいたしまして年頭の話とさせていただきます。
 


神にゆだねる

 私たちがここへ来て6年。吉山前会長より青天の霹靂とも言える指名があって、当時はわからないなりに流れに身をゆだねて神様にもたれたつもりでしたが、実際は不安だらけで人間思案におちいっていたことも多かったように思います。

いまのみちなんのみちやとをもている
なにかわからんみちであれども (4-1)

このさきハをふくハんみちがみへてある
もふあこにあるこゝいきたなり (4-2)

(この道は、今の処細い道で人目には頼りないように思うであろうが、行く先には確かな大道が見えてある。しかも、それそこにある、と言うているうちに、もう目の前に現れてきた。)

自分の今置かれているこの状況、歩んでいる・立っている“道が何かわからなくなる”というのは、世間一般でも結構普通にあることだと思います。

なぜ教会へ来たのか、大きな何かに突き動かされるように漠然と思っていた(直感なのだ)けれど、本当の理由は何なのか。
そうしながら、教内の”天理時報手配り推進大会”の関連で兵庫教区や加古支部での講演などで話す機会を与えてもらい、自分の道を整理する、振り返る機会がありました。
そのおかげで、今までの事は神様の先回りで、(過去に)いろいろあった全てが良いように見えない線で繋がっていて、今こうして結構に家族仲良く通らせて頂いているありのままに感謝する次第です。
大概の人間は目に見えている状況から見通しを立ててこれからの事を判断しますが、いくら人間心で考えてもわからないことがあるわけです。むしろ予測不能のことの方が多いものです。神様の先回りによってどうにでもなる。実際には周りの助けが廻ってくる。それがこの信仰の面白いところであります。人生というのは節目が多く、新しい局面にたえず変化していく。そのたびに色々な判断・選択をする事が出てくるわけです。良いも悪いもその時の状況によって変化していく(状況によってすぐひっくり返る)。そうしたときに人間思案に陥るのも結構ですが、それを手放し神様に委ねてみる事。人生の転機、結婚転職など神の意思にしたがえば、なんだってうまく行く。いつも親神様教祖御霊様がそばについている。そのように通らせて頂ければ最高の人生になると考えます。
 


本物の信仰

 本来教えの原点は元の理であり元のいんねんといいますのは、人間のようきぐらしを見てともに楽しみたいという親神様の思いがあります。こうしなければならない、ああしなければならいという縛りのある人間世界の中で原点(典)に触れ「ようきぐらし」というものへの自分なりの感覚(理解)が必要なのです。ようきぐらしというのはただ楽しいというのではなく、「たんのうのこころ」にありますように簡単に言い表すと大恩に気づきどんな中でもよろこべる状態のことであります。
私自身まだまだ信仰を掘り下げている途中でありますが、今感じている自分が自分のすべてであると思ってしまうと苦しみが多いのです。
多くの場合、私たちは「どう生きるべきか」に頭を悩ませています。しかし、時折、自分は、何ものかに「生かされている」とも感じることがあるのではないでしょうか。私たちのこの身体や周りの全ては神様からの「かりもの」で「心一つが我がのものたった一つの心より日にちに出る」と教えていただきます。二つで一つなのです。決して一つだけではありません。何よりも自分の内面に気づき大恩を自覚し行動することが重要なのです。大恩と言いますのは生かされているというありのままの感覚そのものであります。この感覚に感謝しそれに従い生活を送り 神様の望むようきぐらしを目指しましょう。
何も大きなことをするのではなく今ここで今この瞬間から実践できることなのです。


親心 子供のしあわせがほしい

 先月6月26日は登殿参列に参ってきました。北礼拝場に近い側の西礼拝場でちょうどかぐらづとめを見ることができる位置でございました。本部でつとめられるかぐらづとめはかんろだいを囲んで各方角の神楽面つけてつとめられる元はじまり、元の理をあらわしたおつとめにございます。
このみちハどふゆう事にをもうかな
 このよをさめるしんぢつのみち6-4
真実の道というのは・・・世界の人々の心を治めて安住の境がいを得させる道であるという意味で、心をおさめるというのは、心の入れ替えをもって人々の心を安定せしめる陽気ぐらしの道なのです。

しんぢつのつとめの人ぢう十人の
 心を神がうけとりたなら6-18
心の定まった十人のおつとめを神がうけとるのです

それからハどのよな事もたん/\と
 神のをもわくみなときゝかす6-19
どのよふな事でも神のする事や
 これをやまいとさらにをもうな6-22
全ては子どもかわいい親心です。

このつとめ十人にんぢうそのなかに
 もとはぢまりのをやがいるなり6-30
いざなぎといざなみいとをひきよせて
 にんけんはぢめしゆご をしゑた6-31
このもとハどろうみなかにうをとみと
 それひきだしてふう/\はちめた6-32
このよふの元はじまりハとろのうみ
 そのなかよりもどぢよばかりや6-33
そのうちにうをとみいとがまちりいる
 よくみすませばにんけんのかを6-34
これからわ神のしゆごとゆうものハ
 なみたいていな事でないそや6-40

人間のようきぐらしを見てともに楽しみたいと、人間世界をはじめられ、子どもかわいい親心、いろいろな苦労と長い年月の末ようやく人間ができた、そして今この瞬間もなお、昼夜を問わず守護を続けて下さるのであります。それはなみたいていの事でないぞや言うのは神の本音でありましょう。それくらい子供がかわいいという事なのです。子供というは、特に赤ちゃんだと昼夜とわず常に目を離せない、気にかけてお世話しちゃいますよね。神様からみたら人間はみんな危なっかしい赤ちゃんみたいなもんです。

 6年前出直した私の母は自分の余命が限られている事を知ったあたりから「元の理、元の理が大事」と言っていたのを思い出します。いよいよ最期の時には「何もいらん、私は子供の幸せがほしい」と呟いていたのです。母の言う幸せというのは、ただお金があって裕福であるという意味ではなく、たんのうして喜びにあふれた陽気ぐらしをしているという意味です。私はそれを聞いて母の親心を知り、母のことばを通して元の理に込められた神様の親心の一端にも触れたような気がして、心がすーっとしたのでした。特に私だけの話ではなく、親が子供へかける愛情はどこでも深いものなのだと思いました。

 本部の理を受けてこうして私たちの教会でもおつとめがつとめられるのですが、その意味は真実の心を定めた者がつとめる尊いものなのであります。私たちはみんな親神から祝福され応援され親心いっぱいの中にいるということを実感し、心を澄まして通らせていただきたいと改めて思うのでありました。
 


天理教北播磨分教会

会長:大鷲 和由

兵庫県西脇市黒田庄町石原1182


きたはりまロゴ べっちょないロゴ

今すでに自分の中に
あふれる恵みに気づく